花見川地峡の自然史と交通の記憶 60
現場や資料によりいろいろな新発見をしているうちに、「花見川地峡の自然史と交通の記憶」シリーズも長くなりすぎたので、最後に戸地名の検討を行い、一旦区切ろうと思っていました。
しかし、また現場で新発見をしたようです。このシリーズはまだしばらく続きそうです。
自分としてはかなり大きな発見であると感じています。しかし、地図にこんなにはっきり出ている旧家の築地塀を、今になって、古代駅家(うまや)の外構であるというのは、コロンブスの卵みたいなもので、勇気もいることです。
体系だって情報を整理しているとブログ記事を書くというテンポに時間が合わなくなりますので、この記事では、とりあえず新発見の概要を一報として記述するだけにします。
1 東海道水運支路の陸路部分には駅家(うまや)があるはず
このブログでは、古代(8世紀ごろ)に律令国家が浮嶋駅から花見川を経由して柏井にあった杵隈(かしわい)=船着き場で船を下り、陸路高津に向かい、そこから再び平戸川(新川)を船で下り、常陸国府方面へ通じる、東海道水運支路を仮説として設定し、その各所の遺跡情報を発掘しています。
さて、東海道水運支路といっても、陸路部分があるのですから、そこには駅家(うまや)があるはずです。
駅家(うまや)の遺跡発掘事例はいくつかあり、資料をみるとその概要のイメージがわかります。(この記事では紹介略)
さて、杵隈(かしわい)にも駅家(うまや)があり、中央から来訪する政府高官や使者が高津まで通行するために馬を備え、接待や宿泊ができるような施設があったと考えて不思議はありません。不思議はないというより、そのような施設が存在しなければなりません。
駅家(うまや)には関所機能もあるはずですし、駅楼(えきろう)もあったはずです。
2 旧家の屋敷を囲む築地塀(柵)は古代駅家(うまや)の築地塀(柵)である
次の地図は大正6年測量1万分の1地形図であり、柏井の旧家の屋敷を表現しています。築地塀(柵)を土塁記号で表現しています。
大正6年測量1万分の1地形図
この図に、現代のDMデータ(デジタルマッピングデータ)を重ねてみます。
大正6年測量1万分の1地形図とDMデータの重ね合せ
DMデータ
千葉市提供
参考 2012年撮影空中写真とDMデータ重ね合せ
大正6年の屋敷築地塀(柵)の状況と現代の状況は全く変化していないと言っていいと思います。
そして、この姿は明治15年測量迅速図でも同じです。天保期印旛沼堀割普請の資料でも同じです。(この記事では情報略)
古代(8世紀ごろ)の駅家(うまや)外構配置が、現代までそっくりそのまま伝わってきている可能性が濃厚です。
もしそれが事実として確認できれば、永年の修繕等は当然あると思いますが、それにしても古代駅家(うまや)の貴重な現存資料となり、古代交通研究にとって画期的な資料となります。
現在の築地塀(柵)の様子
台地と旧家屋敷を区切る空堀の様子
右側が旧家屋敷
この旧家屋敷の築地塀(柵)が古代駅家(うまや)の築地塀(柵)であるという根拠を、いま考えられるものだけを列挙すると次のようになります。
ア 杵隈(かしわい)=船着場遺構のその場所に存在する
イ 全国の駅家(うまや)の事例と共通する点が多い
・駅家(うまや)の規模
・築地塀(柵)の存在
・駅楼に代る台地を敷地内に取り込んでいる(台地正面に花見川が見渡せる)
ウ 古代の駅長は地元の有力者であったが、近世のこの旧家も村の名主を務めていて、もし家柄が継続しているならば、整合的に捉えられる。
エ 築地塀(柵)の構造から軍事的要素が観察でき、単なる富裕百姓の屋敷として考えることができないこと
次からの記事で、これらの根拠について詳細に検討していきます。
つづく
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