私の散歩論

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2013年8月22日木曜日

杵隈駅駅家(かしわいえきうまや)(仮称)の特徴

花見川地峡の自然史と交通の記憶 61

このブログではここまで花見川区柏井町にある古代東海道水運支路の船着場を「杵隈(かしわい)=船着場」として記述してきましたが、駅家(うまや)の存在を想定することとなりましたので、杵隈駅(かしわいえき)と仮称することとします。

1 杵隈駅駅家(かしわいえきうまや)の地形的特徴

1-1 検討に用いた地形段彩図
地形段彩図をつくり、そこに杵隈駅駅家の築地と想定する現在の築地を赤線でプロットしました。立体表示した時に立体感がよくわかるように1秒間隔経緯線も書き込みました。この図を立体表示して検討することとします。

地形段彩図
5mメッシュ(標高)から地図太郎PLUSにより作成

1-2 杵隈駅駅家の位置

杵隈駅駅家の位置
立体図はカシミール3Dにより作成
(注意 3D図は現在の地形によるので、花見川は印旛沼堀割普請と戦後印旛沼開発で深く掘り下げられています。古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

花見川を使った水運とここから高津までの陸運の結節場所がこの杵隈駅駅家の位置です。
浮嶋から高津に行くためには、花見川東岸のこの場所で舟から降りて、馬に乗るとか牛車に乗るとか、あるいは歩くしかありません。(2013.08.16記事「杵隈(かしわい)と双子塚古墳を結ぶ官道(想定)」参照)

1-3 駅家地形の特徴

駅家地形
カシミール3Dにより作成

駅家地形
カシミール3Dにより作成

花見川や後谷津に面した河岸段丘だけでなく、台地(下総下位面)も取り込んでいることが特徴です。

台地は駅楼代わりに使い、また防衛上の理由から取り込み、河岸段丘の平坦面には建物を建て、宿泊等ができるようになっていたものと考えます。馬もおいていたと思います。

1-4 駅家内の台地縁からの眺望
台地面を取り込んで駅家をつくった主な理由は、台地の端からの眺望がよく、駅楼の代わりとしてここを使ったものと考えます。
水路あるいは陸路で駅家の近くまで駅使が近づいた時、この台地縁から見つけ、太鼓をたたくなどして急ぎ出迎えの準備等をしたものと考えます。

駅家の台地縁からの眺望
カシミール3Dにより作成
(注意 古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

駅家の台地縁からの眺望
カシミール3Dにより作成
(注意 古代の花見川の河床は後谷津、前谷津と整合的な高さにありました。)

現在の眺望
樹木が邪魔をしているが、当時の花見川河床が遠方までよく見えたことが確認できる。

1-5 台地取り込みの軍事上の理由
台地を取り込んだもう一つの理由は、軍事上台地背後から襲われることを防ぐためであったものと考えます。台地の一部を駅家に取り込み、駅家と駅家ではない台地との間に空堀を設けています。

現在の空堀の様子
左が旧家屋敷

2 考察
現存する旧家屋敷を杵隈駅駅家と考えた主な理由は、上記の位置関係及び台地縁を取り込みなおかつ敷地外との間に空堀を設けたことです。

近世にはこの屋敷は現在と同じ外構で存在していたと考えます。(2012.10.13記事「「天保13年試掘時の北柏井村堀割筋略図」の1万分の1地形図投影」参照)

近世に、いくら名主であるとはいっても、百姓がこのような築地で囲まれて軍事的配慮をしている屋敷を新たにつくれる条件は無かったとおもいます。
それ以前からこの屋敷が在ったから、近世にお上からお咎めなしで存在できたのだと思います。

ですから、中世か古代にこの施設ができ、その意義が忘れられ、近世に至ったと考えます。

中世にこのような施設ができる可能性についての知識は残念ながら持ち合わせていませんが、中世になると陸上の道が発達するとともに、海面の低下により花見川のような小さな河川では水運の条件が劣悪化したと考えます。
ですから、水運と陸運をこの場所でつなぐ施設が中世になってからできたとは考えにくいと思います。

古代に、律令国家が成立した当初、全国に広幅員幹線直線道路を国家の権威を示すために建設した時に、その一環として、この場所に東海道水運支路の駅家が造られたと考えます。そう考える以外にこの築地で囲まれた台地付屋敷の起原を考えることは困難であると思います。

現存する旧家屋敷の外構が古代の駅家そのものであるということは驚くべき発見です。

古墳が現代まで残るように、築地という土木構造物が残ったのです。しかも、生活で使われながら残ったということは大変稀であると思います。


つづく

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