花見川地峡の自然史と交通の記憶 64
1 古代東海道水運支路がつくられた時代推測
古代東海道水運支路がつくられた時期は、次の理由から8世紀頃と考えています。
ア 井上駅から浮嶋駅を通り河曲駅に通じる道路が東海道本路となったのがこの時期であり、この時期に水運支路を設ける必然性があること。
イ この時期の官道は地形を無視した直線道路であるが、古代東海道水運支路の陸路部分(柏井・高津古代官道)も地形を無視した直線道路であること。
古代(768年~796年頃)の道路体系と東海道水運支路(想定)
基図は「衣河流海古代(約千年)水脈想定図」(吉田東伍著「利根治水論考」、日本歴史地理学会発行、明治43年12月1日)
2 古代東海道水運支路が機能していた時代推測
東京湾から花見川を遡り、狭い花見川谷津の奥の花島に行基開基伝承のある花島観音があります。千葉市内で行基開基伝承があるのは千葉寺と花島観音の2ケ所です。行基開基はあくまで伝承で史実ではないのですが、花島観音が千葉市付近では古来からの有数の信仰場所であったことは間違いありません。
花島観音の位置
花島観音ができた当時、花見川に舟運があり、花見川から平戸川(新川)に抜ける交通ルートが使われていたと考えます。
花見川という幹線交通ルートが存在していたので、それを立地条件として花見川観音が現在の場所につくられたと考えます。
行止りの場所に花島観音がつくられたと考えることはできません。
花島観音の秘仏(木造十一面観音立像)は胎内に墨書で、建長8年(1256)に仏師賢光が制作したと記されています。花島観音が置かれている天福寺は天福元年寺とも呼ばれます。天福元年は西暦1233年です。これらの情報から花島観音は13世紀初めごろ開かれたことがわかります。ちなみにこのころは行基信仰の盛んな時代です。
参考 花島観音の秘仏
出典:「天福寺再興落慶供養記念 天福寺本尊十一面観音像」(昭和48年、天福寺)附録写真
これらの情報から、古代東海道水運支路のルートのうち、花見川から平戸川(新川)に抜ける部分の交通は13世紀頃までは機能していたと考えます。
3 まとめ
古代東海道水運支路は8世紀頃つくられ、そのルートのうち、花見川から平戸川(新川)に抜ける部分は少なくとも13世紀頃までの500年間は交通路として機能していたと考えます。
近世(江戸時代)には陸路部分(柏井・高津古代官道)が馬防土手として使われ、花見川から平戸川(新川)に抜ける交通ルートは廃絶していました。
この廃絶した交通ルート(古代東海道水運支路のルート)は人々の記憶(伝承や文書記録)から完全に消え去りました。
この交通ルート廃絶の主な理由は、舟運水利条件が失われたこと(海面低下進行に伴う海岸線後退による湛水面の湿地化・陸化)と台地上の道路網発達の2点にあると考えます。
つづく
海老川(Ebigawa) 乱歩(Ranpo) です。
返信削除遅くなりましたが、コメントします。
ずっと前から一度見てみたいと思っていた仏像です。
30数年に一度しか見られない仏像なのですから。
この写真は、小生が言うのもなんですが、
このブログ、「花見川流域を歩く」の「目玉」と言っても過言ではない
写真ではないでしょうか。
ネットを探しても、全身の写真は見つからなかったので、
全身の写真を見たときは、「オーッ、これかぁ」という感じでした。
小生が想像していたのは、京都や奈良で見るような仏像だったので
正直、作風の違いに驚きました。
仏像評論家の批評を聞いてみたいものです。
海老川乱歩さん
返信削除コメントありがとうございます。
私もこの写真を入手した時は、秘仏の全体像が判って、珍しい写真を入手できたと、マニアックな感慨を持ちました。
素朴な観音像です。
「千葉市歴史散歩」(千葉市教育委員会)という本にも、この観音像の全体写真が載っています。