私の散歩論

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2013年8月29日木曜日

「木戸」地名の強力な古代拠点示唆性(検見川町の例)

花見川地峡の自然史と交通の記憶 67

1 木戸地名の指標性
2013.08.27記事「「戸(と、ど)」地名検討の中間報告」で、「戸」がつく地名を同じ地名が多出する木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸とそれ以外の地名に分類しました。
木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸以外の戸地名は下総台地を海の民が最初に植民した時に付けられた地名、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸は時代が下ってから農民によって付けられた地名であると見立てています。

さて、木戸、井戸、出戸、渡戸、橋戸、折戸のうち、木戸についてはその場所を地図にプロットする際に、古代社会の何らかの拠点と関係しているらしいことに気がつきました。木戸という地名は大変重要な指標性地名であるということです。

木戸という地名は「柵につくった門」が存在していたので、それが人々共通の関心の対象だったので、付けられた地名です。

ですから、木戸という地名は必ず、「人々が関心を持つ、門の付いた柵に囲われた施設」の存在を示します。

つまり、木戸という地名のある場所には何らかの施設=支配のための社会的拠点があったということです。

木戸という地名を見つけて、「ここらへんに垣根の木戸があったようです。」という地名解説をよく見ますが、きわめてもったいないことです。

木戸という地名を見つけたら、その優れた指標性に立脚して、何らかの歴史的施設を探してみることが大切だと思います。新発見ができる可能性が濃厚だと思います。

2 木戸地名の分布
千葉市と八千代市の「木戸」を含む地名を次のプロットしてみました。

千葉市と八千代市の木戸地名

各木戸地名の由来を詳しく調べて行くと、支配のための社会的拠点(施設)に関する情報が豊富になると思います。

3 木戸地名と古代拠点対応例 検見川町の例

検見川町の小字「木戸尻」の位置

検見川の地名「木戸尻」を地図にプロットした時、すぐそばに落合遺跡があり縄文丸木船や古代ハスが出土したことを思い出しました。そしてこの場所は弥生・古墳時代やそれ以降においても花見川唯一の河口港で軍事的にも東京湾方面からの攻撃を阻止する要衝です。ですから柵と木戸によって防衛した施設があったことは極自然だと考えました。

これが、私が、木戸尻という小字は古代の拠点(花見川河口軍港)と対応しているとと直感した瞬間です。

落合遺跡で見つかった縄文丸木舟
2011.08.09記事「縄文丸木舟と大賀ハス7」参照(関連記事多数)

実際に予察的に調べてみると、「木戸尻」という小字が軍事港湾や支配施設と関連することは直感できます。

検見川町「木戸尻」付近の情報図
小字及び遺跡分布を示す。

近くの小字と発掘遺跡に次のようなものがあります。
玄蕃所(小字、遺跡)、居寒(小字、遺跡)、玉造(小字)

玄蕃所とは律令制下治部省に属する玄蕃寮のことだと思います。捕虜等で支配下においた夷狄の管理を行っていたのかもしれません。
※玄蕃寮…律令制の官司で治部省に属する。和名類聚抄の<ほうしまらひと(法師客人)のつかさ>の訓のように、玄は僧、蕃は蕃客の意。京内の寺院・仏事、僧尼の掌握、外国施設の接待、鴻臚(こうろ)館の管理、在京の夷狄(蝦夷・隼人等)などを管掌した。(岩波日本史辞典)

玄蕃所遺跡からは旧石器、縄文(前)、古墳(後)、平安の遺構・遺物が見つかっています。

居寒(イサム)という地名の場所は東京湾を一望できる台地縁にあり、ここが古代においては東京湾方面からの攻撃を防衛するための望楼があった場所であると考えます。敵軍到来の際、勇(いさ)む場所であったのだと思います。「水戦で、貝を吹き鳴らす」(国語大辞典、小学館)場所だったのでしょう。

この地名が残っているということは、ここが軍港であったことを物語っています。
居寒台遺跡からは旧石器、古墳(中・後)、奈良・平安の時代を示す遺構・遺物が出土しています。

玉造という地名はそこで玉の細工等工芸工場があったことを示しているのだと思います。

このように「木戸尻」という一つの小字名から、この近くに古代の一大拠点が存在していることを導くことができました。

柵や木戸の実在はどうでもよいことです。

「木戸」地名が別の場所でもこのように古代拠点を指し示すか、別の例を見てみます。

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追記
この記事は「木戸」地名の指標性について例示したのですが、この古代の検見川河口軍事港湾自体は極めて興味深い場所です。

捕虜収容所?(玄蕃所?)まである河口軍事港湾ですから、その意義を良く調べれば、ここから杵隈、高津を経て香取の海に通じる東海道水運支路の意義もまた浮き彫りになると思います。

また、東海道水運支路が東京湾に出て品川方面へとつながることもイメージできます。

東海道の浮嶋駅家とこの軍事港湾との関係も気になります。浮嶋駅家は花見川対岸の馬加の洲(砂丘)上にあって、花見川を遡る港の本港はこの検見川にあったということなのでしょうか?それとも、この軍事港湾が即ち浮嶋駅家なのでしょうか

検見川河口軍事港湾について突っ込んで調べてみる日がくることを楽しみにしています。
(2013.08.30)
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つづく

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