花見川地峡の自然史と交通の記憶 51
律令国家兵部省の高津馬牧への植民ルートを考えてみました。
次の図は中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)に掲載されている768年~796年頃の道路体系図です
延暦15年(796)頃の道路体系(A図)
出典:中村太一著「日本古代国家と計画道路」(吉川弘文館、平成8年)
引用者が道路を赤色で着色
また、次の図は吉田東伍著「利根治水論考」に掲載されている衣河流海[きぬがわながれうみ]古代(約千年)水脈想定図です。
衣河流海古代(約千年)水脈想定図(B図)
吉田東伍著「利根治水論考」、日本歴史地理学会発行、明治43年12月1日
(画像を濃くしてあります。)
B図を基図として、A図の内容を書きこみ、さらに高津馬牧、高津(古代直轄港湾)、想定される東海道の水運支路を書き込みました。
この図から律令国家兵部省が高津馬牧へ植民したルートを考えると、浮嶋駅から方面から高津馬牧に出入りしていたルートがメインであると思考することが合理的であると直感できます。
下総国府との距離が最も短いからです。
当時は台地上の移動がまだほとんどできないという状況がありました。
こうした中で、下総国府が兵部省の拠点であり、そこから高津馬牧を開発しようとしたとき、香取の海方面から印旛沼を遡って最上流部の高津まで到達し、その土地を開拓することは極めて非合理的でありほとんどありえないことと考えてよいと思います。
さらに、印旛沼周辺の各植民地は律令国家に100%忠誠をもつ状況にもなかったと思います。軍事的にも香取の海からさかのぼることはリスキーだったと思います。
このように考えると、浮嶋駅から花見川を遡って杵隈(カシワイ)=船着場に到達し、そこから陸路柏井・高津古代官道を通り、高津(古代直轄港湾)に到達するというルートが高津馬牧へのメインルートであることがはっきりします。
杵隈(船着場)、柏井・高津古代官道、高津(港湾)の整備は律令国家が高津馬牧という植民地開拓のために設けたインフラであったと言ってもよいと思います。
なお、律令国家は浮嶋駅から高津に到り、そこから常陸国府までの水運ルートを構想していたものと考えます。
高津に軍事施設としての土塁(砦)があることから判るように、印旛沼周辺の交通を安全に確保するためには、そのルートの要衝に軍事的拠点つまり、直轄港湾としての「津」
が必要です。
高津から常陸国府に到る区間に「津」(古代直轄港湾)があるかということにも興味が拡がります。
この付近には「志津」「公津」という地名があります。これらの地名は古代直轄港湾の存在を伝えているのではないかと想像しています。
つづく
■□花見川流域を歩く■□にほんブログ村■□花見川流域を歩く■□にほんブログ村■□
0 件のコメント:
コメントを投稿