私の散歩論

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2014年4月2日水曜日

花見川地峡の存在とその形状が谷津であることに気がつく

シリーズ 花見川地峡とは その2

1 散歩を始めた最初は花見川地峡の存在に気がついていなかった
散歩しはじめた頃は、印旛沼堀割普請が行われた堀割付近について次のようなイメージを持っていました。

散歩当初の間違ったイメージ
単に台地が分水界になっているというイメージをもっていました。

この場所に花見川地峡が存在していたことには気がつきませんでした。

2 散歩を継続する中で花見川地峡の存在に気がついた
その後、散歩でいろいろなことに興味を持ち、観察を深め、また資料を調べてみると次のような事実を認識することができました。

●散歩で気がついた事実
1 時間的視野を拡げると縄文海進時代には、花見川付近では、香取の海と東京湾のフィヨルド状の入り江が3㎞くらいまで接近していたこと。つまり縄文海進時代には正真正銘の地峡が存在していたこと。

2 この場所に河川争奪現象があり、印旛沼堀割普請前にすでに自然地形としての「堀割」(つまり谷津)があったこと。

これらの事実の詳しい説明はあらためて別シリーズで行いますが、要点を次に図で示します。

花見川付近における縄文海進時代の海の分布
ボーリンデータで確認すると、縄文海進期の香取の海の最奥部と東京湾の最奥部は直線距離にして約3.1㎞まで接近していました。

自然地形として現在でも残存する古柏井川谷底

自然地形として現在でも残存する古柏井川谷底(参考資料)

現在の地形をよく見ると、印旛沼堀割普請の捨土土手の背後に断片的に谷津谷底が残っていて、それは千葉第1段丘に連続しています。この新発見谷津を古柏井川と命名しました。

古柏井川は東京湾水系花見川によって截頭されていて、空川でした。(花見川河川争奪)

印旛沼堀割普請は花見川の谷津と古柏井川の谷津を利用して行われました。台地面を一から掘り下げたのではありません。

これらの事実により地形から見ると、次のような花見川地峡イメージを持つことができます。

花見川地峡イメージ

つまり、字義通りとしての地峡が縄文海進時代に花見川に存在していたことと、その形状が谷津であるという特殊性に気がつくことができまし。

なお、この花見川地峡イメージ図は花見川地峡という概念を説明するために実際の地形をデフォルメして作成していることは申し上げるまでもないことです。

実際の縄文海進時の海陸分布イメージを次に示します。

縄文海進時の海陸分布イメージ
この地図は現在の等高線10mを境に、それより低い土地を海、高い土地を陸と見立てた地図です。
この地図の蓋然性については改めて別シリーズで説明予定です。

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