私の散歩論

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2014年8月28日木曜日

奈良、平安時代遺跡密度について考える

シリーズ 花見川地峡の利用・開発史
第1部 縄文弥生時代の交通 その20

奈良時代遺跡密度と平安時代遺跡密度を一緒にして、考察しました。

平安時代遺跡密度の作成については考察の次に記述しました。

1 奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度の考察
次に、古墳時代遺跡密度、奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度を並べて見ました。
この図から、奈良時代と平安時代の特徴を一緒に考察します。

古墳時代遺跡密度、奈良時代遺跡密度、平安時代遺跡密度比較図

次のような特徴を読み取れます。
ア 上総の高密度地域(赤領域、黄領域)が奈良時代、平安時代と順に縮小しています。(上総地域遺跡密度の相対的ランクが劇的に下がったということです。)

イ 下総地域の高密度地域が古墳時代から奈良時代、平安時代になるとその領域を拡大しています。
特に九十九里浜地域が平均以上地域(黄領域)になっています。これは古墳時代までの未利用地が干拓や開墾され、農業地帯になったことによります。

ウ 市川、流山、我孫子が古墳時代から奈良時代、平安時代になると高密度地域(赤領域、黄領域)に変化していますが、これは国府の設置(市川)や官道(東海道)の設置(市川、流山、我孫子)と関わりがあるものと考えます。

上記特徴のアとイから次のような地域比較イメージをもちました。
●古墳~平安遺跡密度図を並べて得た地域比較イメージ
ア 上総と下総を比較すると、古墳時代の歴史の濃さは同じくらいかあるいは上総の方が濃いように見えます。言い換えると、遺跡密度からみると上総と下総は、国力が同じかあるいは上総の方が大きいように見えます。(遺跡の数は集落跡関係が多くを占めるので、遺跡密度が高いことは人口密度が高いことと同じで、それは農業生産量が多いことを意味すると考えます。)

イ ところが、奈良時代、平安時代と時代が進むに従って、歴史の濃さは下総の方が圧倒的に濃くなります。言い換えると、遺跡密度からみると、下総のほうが圧倒的に国力が大きくなったように見えます。

以上のような地域比較イメージを念頭に、千葉県公式歴史書である「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)を読んだのですが、このような地域比較イメージに関わる記述にであうことができませんでした。
様々な項目で古墳時代後期ごろから平安時代までの間の上総、下総、安房の比較がなされているのですが、密度イメージ図に出てくるような劇的変化に対応するような記述を見つけることができません。

遺跡密度図から受ける私の印象がどこかで間違っているのか、あるいは歴史専門家が地域比較という基本的考察を行っていない(興味を持っていない)のか、とても気になります。

なお、次のような記述が「千葉県の歴史 通史編 古代2」(平成13年、千葉県発行)にでてきます。
「千葉県内の奈良・平安時代の遺跡のうち、これまで発掘調査された遺跡は700か所を超えており、その大半は、竪穴住居などが見つかっている集落遺跡である。ほとんどが開発事業にともなった発掘調査であるため、調査事例は開発事業の多い下総地域や上総地域の北半分にかたよっている。」

筆者がこの文章で、「これまでの発掘調査が主に下総地域や上総地域の北半分で行われた」という事実だけを言いたいのならば、その通りなのだとおもいます。

しかし、筆者が言外に「下総地域や上総地域の北半分は開発事業が多いから遺跡がかたよって分布している。」と考えているとしたら、間違いではないでしょうか。

それは、古墳時代遺跡密度図をみていただければわかると思います。開発事業が多い下総地域や上総地域の北半分にだけ遺跡が偏在しているわけではありません。むしろ開発事業の少ない地域の方が遺跡密度が濃いように見えます。

専門家の方は「開発事業が多い場所は遺跡が沢山見つかり、そうでない場所は遺跡が少ない」というストーリーを信奉しすぎてしまった結果、すでに浮かび上がっている地域特性を見ようとしない(興味を持とうとしない)といったら言い過ぎでしょうか?

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追記 2014.08.29
次のような仮説を考えました。

・古墳時代の土木技術レベル、人力組織動員レベルで開発できる条件の土地(谷津や条件の特別良い中小河川沖積地)の主要な場所は、下総では印旛浦など、上総では養老川、小櫃川、小糸川流域などであった。古墳時代にはそれらの場所が開発された。

・奈良、平安時代になり土木技術レベル、人力組織動員レベルが向上すると、これまで開発できなかった条件の厳しい土地を新たに開発できるようになった。

・その新たに開発可能となった土地が下総の香取の海沿岸(印旛浦を含む各地)、太平洋岸(椿海、九十九里浜)にはたくさんあり、土地開発を進めることができた。

・一方、上総の東京湾岸(養老川、小櫃川、小糸川流域)、太平洋岸(九十九里浜、夷隅川流域)には新たに開発できる土地が少なく、土地開発が行われた地域は限定された。

要するに遺跡密度図の変化は、社会の変化により土地条件に起因する土地開発活動の違いが発生し、それが顕著に表現されていると考えました。
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2 平安時代遺跡密度図の作成
千葉県全体の埋蔵文化財(平安時代)箇所数は5017箇所で、全埋蔵文化財箇所数19905の約25.2%にあたります。

箇所数が多い自治体は千葉市453、成田市368、香取市339、市原市310、佐倉市232、山武市222、印西市207、旭市204などとなっています。箇所数が少ない自治体は浦安市0、習志野市2、勝浦市7、九十九里町7などとなっています。

埋蔵文化財(平安時代)5017箇所を千葉県面積5156.62km2で割ると平均埋蔵文化財(平安時代)密度9.7箇所/10km2が算出されます。

そこで密度情報を単純化してわかりやすくするために、平均値の値とその倍数を使って、次のような分級をして分布図を作成しました。

●埋蔵文化財(平安時代)密度の分級
分級A 19.4~ 箇所/10km2
分級B 9.7~19.3 箇所/10km2
分級C ~9.6 箇所/10km2

なお、千葉市の情報は区別に示しています。

平安時代遺跡密度図

次の記事で駅路ルートと遺跡密度図との関係を考えます。

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