私の散歩論

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2014年12月28日日曜日

花見川区柏井町・横戸町境に存在した古代直線道路似の馬防土手

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.35 花見川区柏井町・横戸町境に存在した古代直線道路似の馬防土手

1 印旛沼堀割普請前の柏井内野の直線状境界線

17世紀中頃の柏井内野の境と現代柏井町と横戸町の境の対応

印旛沼堀割普請前の地形が判る17世紀中頃の小金牧周辺野絵図に柏井内野(柏井村が囲った内野)境が出ていて、東側の境が直線状になっています。

この絵図では花見川の谷頭が現在の柏井高校南側に描かれています。(これが印旛沼堀割普請前の自然地形です。)

この直線状の柏井内野境界は現代の柏井町と横戸町の境として伝承されてきています。
問題とする直線状の境の線分が他より太く(濃く)、当時既にこの場所に馬房土手が出来ていた可能性が高いと考えます。

2 明治期資料による馬防土手の確認

迅速図に表現された直線状土手
迅速図「千葉県下総国千葉郡大和田村」図幅部分(明治15年測量)

明治期測量迅速図には柏井内野境に馬防土手が描かれています。

3 1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界
戦時中の開墾が行われた場所以外の場所で空中写真実体視により馬防土手が観察できます。また印旛沼堀割普請後の地形上に馬房土手延長の大字界対応土地利用界を見ることが出来ます。

1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界1
花見川西岸

参考 1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界1(裸眼実体視資料)
花見川西岸

1949年撮影米軍空中写真に写る馬防土手とその延長境界2
花見川東岸

馬防土手のルートをよく観察すると地形を無視した直線性が優先しています。多少直線性を犠牲にすればより合理的なルートが可能ですが、あくまで直線性を優先しています。

4 直線状馬防土手の起終点が古墳であること

直線状馬防土手の起終点に存在する2つの古墳

直線状馬防土手の起終点に2つの古墳が使われています。

柏井村が自分の内野を取り囲むために、古墳と古墳を結んで直線を引いたという行為は考えにくいです。そこに既に古墳と古墳を結ぶ直線状地物があり、それが使われていないために、都合よく利用したと考えることの方が順当だと思います。

5 地籍図をみると直線状境界にクランクが存在している

昭和9年地籍図から見て取れる直線状境界のクランク
大字柏井と大字横戸の地番割図(近づけ図)
出典:「千葉県千葉郡犢橋村全図」(昭和9年7月、全国町村地番地図刊行会陽明社、全4枚)(情報提供:千葉市立郷土博物館)

昭和9年地籍図を分析すると、直線状境界にクランクがみられます。

馬防土手以前にこの場所に古代官道があり、それが使われなくなり、地元の馬防土手として使われるようになった頃、道路敷の早い者勝ちの取り合いがあり、それがクランクとして残存していると考えることができます。

6 小字名称の分析

小字「高台向」と小字「高台」
出典:「千葉市史 史料編 9 近世」収録小字分布図(横戸村、北柏井村、南柏井村の小字分布図を近づけて表示)

さて、高台の意味は素直に受け取ることができます。標高が高く、同時に谷津の最も高い部分(谷中分水界)近くの台地ですから二重に高台です。

高台向は、とても意識してつけた名称です。高津川が平戸川に合流する谷底平野を眺望する台地縁に存在するにもかかわらず、その谷底平野とは逆の台地奥の、それも印旛沼水系ではなく東京湾水系の谷津谷頭部の高台を見て、つけられた地名です。

更に、高台向ということは、主体が高台であって、高台向は従です。

私は、古代官道(仮説)の管理に係ったのが横戸の人々であることから、この地名が付けられたのだと思います。

例えば、律令国家中央から、官道(陸路部分)の管理担当は横戸,杵隈(カシワイ、船着場)の管理担当は柏井、高津(直轄港湾)の管理担当は高津などとの労役区分があったのだと思います。

横戸の人々が、古代官道(仮説)の管理役務をするとなると、視線(意識)は道路に向きます。その方向は高台です。ですから、自分たちの場所は高台向となります。

要するに、高台向という地名は古代官道(仮説)管理にその場所の人々が動員されたためにうまれたものであると思います。

7 直線状境界が古代官道起源と考えることの合理性
直線状境界が当時の花見川谷頭部を横断して花見川東岸まで延長していることは、柏井の船着場(杵隈駅駅家)から台地上に出るルートがここしかないことに対応しています。

柏井付近の地形

本来柏井から花見川東岸で台地上にでればより合理的なルートになると考えますが、柏井付近の花見川東岸は河岸段丘と台地の間に急崖が存在し、陸運に不都合です。
直線状境界が花見川谷頭部を横断して花見川東岸に出ていることは、この直線状境界(馬防土手)が古代官道起源と考えること支持します。

8 花見川区柏井町・横戸町境に存在した直線状馬防土手は古代直線道路と考える

花見川区柏井町・横戸町境に存在した直線状馬防土手は、1-7の情報及びそれが東京湾水系水運と香取の海水運を結ぶ船越に存在していることから、古代直線道路(古代官道)と考えます。

古代に東京湾水運と香取の海水運を結ぶ船越がここ在ったのですが、その後海面低下等の理由により花見川筋や平戸川筋の水運が困難になり、また陸運が発達して、この場所の船越が使われなくなったと考えます。

船越として使われなくなった直線道路は格好の内野囲い込みの馬防土手として利用されるようになったと考えます。

なお、直線道路と考える馬防土手の延長は約1.4㎞、幅は平均11.6mと推定できました。

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