花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.37 高津馬牧(延喜式)の位置考察
この記事は2013.08.05記事「高津土塁から高津馬牧(延喜式)の位置を考察する」の転載です。
1 吉田東伍見立ての正確性が立証される
吉田東伍著「大日本地名辞書 坂東」の「高津」の項に「延喜式に、下総国高津馬牧とあるは、蓋此地とす。」と記述しています。「蓋此地とす」とは「多分この地であろう」という意味だと思います。
延喜式(927)の第28巻の兵部省の項で、諸国馬牛牧として下総国には高津馬牧、大結馬牧、本嶋馬牧、長洲馬牧、浮嶋牛牧の5牧が記述されています。
この記述から、高津馬牧が律令国家の軍事組織が直轄する馬牧であったことがわかります。
吉田東伍は高津という地名を手がかりに、延喜式に出で来る下総国高津馬牧を近世高津村付近に比定しました。
さて、高津土塁(砦)という軍事施設を発見して、その位置から高津土塁が守った地域(高津土塁構築により植民した地域)が高津川流域であることが明白となりました。
吉田東伍の延喜式記述に関する見立ての蓋然性は一層高まりました。
近世高津村の領域と高津土塁の位置関係
2 小金牧周辺野絵図をつかった高津牧領域の検討
次の図は小金牧周辺野絵図(17世紀中頃、千葉県公文書館所蔵)に河川名と内野名等を書き込んだものです。
牧付村が囲い込んだ内野が柿色で、野(外野)の部分が緑色で示されています。幕府の牧が設定されたのは近世初頭以来のことで、小金牧(この付近は小金牧の中の下野牧)の範囲はほぼ緑色(外野)の部分に相当します。
A案
幕府が設定する小金牧以前に既に開発されていた牧(内野)のうち、高津土塁付近の牧を高津馬牧と考えた案がA案です
B案
幕府が設定する小金牧以前に既に開発されていた牧(内野)のうち、高津内野という名称の牧を高津馬牧と考えた案がB案です。
A案とB案を比較すると、A案では柏井内野、大和田内野、萱田内野という太古からの交通路に面するものをふくんでいますが、B案では太古からの交通路に含まれない高津内野だけとなっています。
律令国家が高津土塁(軍事施設)を築いて新たに植民したのですから、その範囲は既存交通路に面した地域ではなく、既存交通路に面していない未開地が高津馬牧であると考えます。
律令国家兵部省が高津馬牧を開発した当時、柏井、大和田、萱田はすでに開発されていた(植民されていた)土地であったものと考えます。
従って、B案が高津馬牧の範囲を示すものとして合理的です。
B案は近世高津村の範囲とほぼ一致します。
結論として、高津馬牧はその地名の通り高津村領域であったと考えることが妥当です。
延喜式の高津馬牧という名称が17世紀中頃には高津内野や高津村として伝わり、現代でも大字高津としてしっかり土地に定着しています。地名の継続性に感嘆します。
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