路面は前日の雨が凍っていて危険な状態でしたが、最近では暖かく感じる朝でカメラを持つ手がかじかみませんでした。
東の空の茜色と藍色が北斎の浮世絵のようでした。
東の空
少し川霧が出ていました。
花見川 横戸緑地下付近
南の遠くの雲がとても速く移動していました。
弁天橋から下流
北には雲はありませんでした。
弁天橋から上流
弁天橋から下流方向(南方向)に雲が見え、上流方向(北方向)に雲がない(少ない)ということは、その時の雲の発生を伴う大気現象の主な位置が太平洋上にある場合だと思います。
私の散歩論
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2015年1月31日土曜日
2015年1月30日金曜日
位置決定要因別に見た古墳タイプ
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.53 位置決定要因別に見た古墳タイプ
花見川・浜田川流域について、位置決定要因別に古墳タイプを分類してみました。
1 花見川・浜田川流域の古墳と水田可能谷津
花見川・浜田川流域について、古墳名称と水田開発可能谷津名称を書きこんでみました。
花見川・浜田川流域の古墳と水田開発可能谷津
2 東鉄砲塚古墳群が対応する支配領域
東鉄砲塚古墳群(前方後円墳1基、円墳5基)が対応する支配領域は次に示す通り、花見川・浜田川流域全体であると考えました。
東鉄砲塚古墳群が対応する支配領域
3 下位ランク古墳(円墳)と水田開発可能谷津との対応
下位ランク古墳(円墳)と水田開発可能谷津との対応は次のように把握することができます。
古墳と水田開発可能谷津との対応
4 位置決定要因別に見た古墳タイプ
古墳と対応支配領域・対応水田開発可能谷津の関係から、次のような古墳の位置決定要因が浮かび上がり、個々の古墳のタイプを求めることができます。
古墳の位置決定要因
A 領域確定タイプ
B 河口眺望タイプ
C 居住地周辺タイプ
D 海岸低位タイプ
位置決定要因別に見た古墳タイプ
A 領域確定タイプは近隣競合グループとの境界を確定するために、支配領域最外縁部に古墳を設置したと考える、最も政治性の高い位置決定要因です。
東鉄砲塚古墳群と双子塚遺跡が該当します。
東鉄砲塚古墳群は花見川・浜田川グループ支配領域の西側最外縁部に設置して、田喜野井川流域を支配するグループとの間の境界を確定させる機能を有しているものと考えます。
前方後円墳である鷺沼古墳(A号墳)とにらみ合うような近接する位置に設置されています。
東鉄砲塚古墳群の領域確定機能
同じように、二つの前方後円墳が近接してにらみ合うような例として、印旛浦北岸の船尾町田遺跡と西ノ原第3号墳の例があります。(2015.01.26記事「古墳の階層性に関する予察」の中の図「古墳密集地の分布」参照。2つの古墳が異様に接近している様子は2015.01.27記事「前方後円墳分布の把握」の中の図「暫定調査範囲周辺の前方後円墳分布」で確かめることができます。)
双子塚遺跡は花見川上流の水田開発可能地に対応する小首長の古墳と考えますが、花見川源頭部に設置されていて、高台南古墳に対応する平戸川上流域支配グループとの間の境界を確定させたものだと考えます。
双子塚遺跡付近は花見川源頭部であり、同時に平戸川筋につながる空川(古柏井川)との間での谷中分水界を成しています。また台地面も花見川流域は下総上位面、古柏井川流域は下総下位面となっていて小崖で境されています。
古墳時代の双子塚付近の地形
なお、このような政治性の強い古墳設置場所選定は花見川上流の(おそらく柏井付近の)小首長が独自に発案したものというよりも、流域全体の支配者である東鉄砲塚古墳群に対応する首長の流域支配・経営戦略の一環であると考えます。
古墳時代にあっては縄文時代・弥生時代から引き続き花見川-平戸川筋の交通が盛んであり、東鉄砲塚古墳群に対応する流域首長は花見川上流部の交通機能の重要性を意識して、地元小首長の円墳を花見川源頭部につくらせ、自らの支配領域を確実に確保したのだと思います。
B 河口眺望タイプは水田開発可能谷津が流入する花見川本川谷津(=海に近い状態、水田は無い)を眺望できる場所に古墳を設置する例です。
子安古墳群、殿山遺跡、武石古墳、大小塚古墳群、椎崎古墳が該当します。
C 居住地周辺タイプは水田開発可能谷津の中流部の居住地近く古墳を設置する例です。
大山古墳、陣屋台古墳群、鉄砲塚古墳が該当します。
D 海岸低地タイプは海に関わるグループが海岸に古墳を設置する例ですが、社会階層上の制約から台地上に古墳を設置できないため台地下の低地に古墳を設置した例です。
愛宕山古墳が該当します。
愛宕山古墳の位置は検見川台地の先端部に位置していて、花見川河口津に出入りする船は必ずその前を通航することになりますから、漁業関係者、海運関係者等海に関わりのある人々にとっては重要な位置を占めています。(現在は花見川河川改修のため台地と古墳が分断されてしまっています。)
花見川・浜田川流域について、位置決定要因別に古墳タイプを分類してみました。
1 花見川・浜田川流域の古墳と水田可能谷津
花見川・浜田川流域について、古墳名称と水田開発可能谷津名称を書きこんでみました。
花見川・浜田川流域の古墳と水田開発可能谷津
2 東鉄砲塚古墳群が対応する支配領域
東鉄砲塚古墳群(前方後円墳1基、円墳5基)が対応する支配領域は次に示す通り、花見川・浜田川流域全体であると考えました。
東鉄砲塚古墳群が対応する支配領域
3 下位ランク古墳(円墳)と水田開発可能谷津との対応
下位ランク古墳(円墳)と水田開発可能谷津との対応は次のように把握することができます。
古墳と水田開発可能谷津との対応
4 位置決定要因別に見た古墳タイプ
古墳と対応支配領域・対応水田開発可能谷津の関係から、次のような古墳の位置決定要因が浮かび上がり、個々の古墳のタイプを求めることができます。
古墳の位置決定要因
A 領域確定タイプ
B 河口眺望タイプ
C 居住地周辺タイプ
D 海岸低位タイプ
位置決定要因別に見た古墳タイプ
A 領域確定タイプは近隣競合グループとの境界を確定するために、支配領域最外縁部に古墳を設置したと考える、最も政治性の高い位置決定要因です。
東鉄砲塚古墳群と双子塚遺跡が該当します。
東鉄砲塚古墳群は花見川・浜田川グループ支配領域の西側最外縁部に設置して、田喜野井川流域を支配するグループとの間の境界を確定させる機能を有しているものと考えます。
前方後円墳である鷺沼古墳(A号墳)とにらみ合うような近接する位置に設置されています。
東鉄砲塚古墳群の領域確定機能
同じように、二つの前方後円墳が近接してにらみ合うような例として、印旛浦北岸の船尾町田遺跡と西ノ原第3号墳の例があります。(2015.01.26記事「古墳の階層性に関する予察」の中の図「古墳密集地の分布」参照。2つの古墳が異様に接近している様子は2015.01.27記事「前方後円墳分布の把握」の中の図「暫定調査範囲周辺の前方後円墳分布」で確かめることができます。)
双子塚遺跡は花見川上流の水田開発可能地に対応する小首長の古墳と考えますが、花見川源頭部に設置されていて、高台南古墳に対応する平戸川上流域支配グループとの間の境界を確定させたものだと考えます。
双子塚遺跡付近は花見川源頭部であり、同時に平戸川筋につながる空川(古柏井川)との間での谷中分水界を成しています。また台地面も花見川流域は下総上位面、古柏井川流域は下総下位面となっていて小崖で境されています。
古墳時代の双子塚付近の地形
なお、このような政治性の強い古墳設置場所選定は花見川上流の(おそらく柏井付近の)小首長が独自に発案したものというよりも、流域全体の支配者である東鉄砲塚古墳群に対応する首長の流域支配・経営戦略の一環であると考えます。
古墳時代にあっては縄文時代・弥生時代から引き続き花見川-平戸川筋の交通が盛んであり、東鉄砲塚古墳群に対応する流域首長は花見川上流部の交通機能の重要性を意識して、地元小首長の円墳を花見川源頭部につくらせ、自らの支配領域を確実に確保したのだと思います。
B 河口眺望タイプは水田開発可能谷津が流入する花見川本川谷津(=海に近い状態、水田は無い)を眺望できる場所に古墳を設置する例です。
子安古墳群、殿山遺跡、武石古墳、大小塚古墳群、椎崎古墳が該当します。
C 居住地周辺タイプは水田開発可能谷津の中流部の居住地近く古墳を設置する例です。
大山古墳、陣屋台古墳群、鉄砲塚古墳が該当します。
D 海岸低地タイプは海に関わるグループが海岸に古墳を設置する例ですが、社会階層上の制約から台地上に古墳を設置できないため台地下の低地に古墳を設置した例です。
愛宕山古墳が該当します。
愛宕山古墳の位置は検見川台地の先端部に位置していて、花見川河口津に出入りする船は必ずその前を通航することになりますから、漁業関係者、海運関係者等海に関わりのある人々にとっては重要な位置を占めています。(現在は花見川河川改修のため台地と古墳が分断されてしまっています。)
2015年1月29日木曜日
花見川付近の地域構成イメージ検討
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.52 花見川付近の地域構成イメージ検討
花見川付近の古墳時代水田開発可能地をイメージすることができました。(2015.01.28記事「古墳時代の水田開発可能地の検討」参照)
古墳時代の水田開発可能地は花見川でいえば、その支流の狭小谷津が該当することがわかりました。現在水田地帯となっている花見川平野は古墳時代には水面(海)であったり荒地であり、治水技術を持たなかった当時は水田開発する可能性がゼロでした。
この水田開発可能地分布図の上に、ふさの国ナビゲーションで得られる古墳時代遺跡に関する情報をプロットして、検討作業途中図を作成しました。
検討作業途中図 花見川・浜田川付近の古墳時代遺跡の出土物・遺構
ただし、書きこんだ内容は、その遺跡が奈良・平安時代にも重複している場合、出土物・遺構の時代はわかりませんから、古墳時代とは限りません。奈良・平安時代期の出土物・遺構も含みます。
正確性に欠ける作業図ですが、時代別の正確な出土物・遺構の情報は遺跡報告書を閲覧しなければわかりません。そのため、正確性に欠けても、遺跡報告書を閲覧していない自分にとっては、現状では大切な情報です。
「土」記号は土器片のみ出土した遺跡です。
この検討作業途中図をよく見ると、古墳時代の地域構成がかなり明瞭にイメージできました。地域構成が明瞭にイメージできたからといって、結果として正しいかどうかの保証にはなりませんが、これからの検討(報告書閲覧)を効率的に進めることができる条件が整ったことになります。
明瞭にイメージできた地域構成を次に示します。
検討作業途中図から生まれた問題意識
Aは軍事・交易機能を示す遺物・遺構が存在するので軍事・交易ゾーンとして考えました。
Bは工房や工芸品出土遺跡を含むもので、古墳密集地に持近く、工芸・消費ゾーンと考えました。有力首長はこのゾーンに居を構えていたと考えます。
Cは水田開発可能地に分布する遺跡を連ねたゾーンであり、水田耕作ゾーンとしました。谷津源頭部に遺跡が多い分布図をみて、私は、古墳時代の水田開発は、水手当の心配が少なく、かつ洪水の心配も少ない源頭部から下流に向かって行われたと考えるようになりました。
Dは貝塚を伴う遺跡で、海漁業を担う集落の遺跡であると考え、海漁業ゾーンと考えました。このゾーンの近くに方墳(愛宕山古墳)があります。水田耕作に関わる遺跡に随伴する円墳はすべて台地上にあるのですが、この方墳は台地下の標高6mの土地にあります。ですから方墳の被葬者は社会階層上水田耕作を担う上位首長の下に位置付けられていたと考えます。その下位集団が海漁業や航海に携わる集団であった可能性を予感します。
Eは水田とは関わらないで、かつ花見川に面した台地に立地する遺跡です。そのうち、2箇所の遺跡から土錘が出ています。また近くの遺跡から紡錘車がでています。そこで、川漁業・畑作ゾーンと考えました。台地上で麻を栽培し、川で漁業を行っていたと考えます。川漁業・畑作ゾーンとしました。この遺跡分布域は古墳を伴っていません。水田耕作に伴う遺跡は古墳を伴います。従って、このゾーンの住人は社会的に劣位なポジションにいた可能性を感じます。
Fは花見川・浜田川圏に隣接する別圏域です。なお、小中台川筋には古墳が狭い範囲内に異様に多数分布します。暫定調査範囲内だけでも15あり、花見川・浜田川圏とほぼ同数です。また、横穴が存在することも気になります。小中台川筋にはそれなりの特殊事情があると予感できますから、興味が湧きます。また田喜野井川筋には鍛冶遺構が出土していますが、前方後円墳に対応する圏域(支配領域)毎に鍛冶施設があったに違いないと考えます。
以上のイメージを念頭に遺跡報告書の閲覧に入ります。
(東京湾流域の遺跡報告書閲覧の後、香取の海流域の予察検討を行い、その後報告書閲覧する予定です。)
花見川付近の古墳時代水田開発可能地をイメージすることができました。(2015.01.28記事「古墳時代の水田開発可能地の検討」参照)
古墳時代の水田開発可能地は花見川でいえば、その支流の狭小谷津が該当することがわかりました。現在水田地帯となっている花見川平野は古墳時代には水面(海)であったり荒地であり、治水技術を持たなかった当時は水田開発する可能性がゼロでした。
この水田開発可能地分布図の上に、ふさの国ナビゲーションで得られる古墳時代遺跡に関する情報をプロットして、検討作業途中図を作成しました。
検討作業途中図 花見川・浜田川付近の古墳時代遺跡の出土物・遺構
ただし、書きこんだ内容は、その遺跡が奈良・平安時代にも重複している場合、出土物・遺構の時代はわかりませんから、古墳時代とは限りません。奈良・平安時代期の出土物・遺構も含みます。
正確性に欠ける作業図ですが、時代別の正確な出土物・遺構の情報は遺跡報告書を閲覧しなければわかりません。そのため、正確性に欠けても、遺跡報告書を閲覧していない自分にとっては、現状では大切な情報です。
「土」記号は土器片のみ出土した遺跡です。
この検討作業途中図をよく見ると、古墳時代の地域構成がかなり明瞭にイメージできました。地域構成が明瞭にイメージできたからといって、結果として正しいかどうかの保証にはなりませんが、これからの検討(報告書閲覧)を効率的に進めることができる条件が整ったことになります。
明瞭にイメージできた地域構成を次に示します。
検討作業途中図から生まれた問題意識
Aは軍事・交易機能を示す遺物・遺構が存在するので軍事・交易ゾーンとして考えました。
Bは工房や工芸品出土遺跡を含むもので、古墳密集地に持近く、工芸・消費ゾーンと考えました。有力首長はこのゾーンに居を構えていたと考えます。
Cは水田開発可能地に分布する遺跡を連ねたゾーンであり、水田耕作ゾーンとしました。谷津源頭部に遺跡が多い分布図をみて、私は、古墳時代の水田開発は、水手当の心配が少なく、かつ洪水の心配も少ない源頭部から下流に向かって行われたと考えるようになりました。
Dは貝塚を伴う遺跡で、海漁業を担う集落の遺跡であると考え、海漁業ゾーンと考えました。このゾーンの近くに方墳(愛宕山古墳)があります。水田耕作に関わる遺跡に随伴する円墳はすべて台地上にあるのですが、この方墳は台地下の標高6mの土地にあります。ですから方墳の被葬者は社会階層上水田耕作を担う上位首長の下に位置付けられていたと考えます。その下位集団が海漁業や航海に携わる集団であった可能性を予感します。
Eは水田とは関わらないで、かつ花見川に面した台地に立地する遺跡です。そのうち、2箇所の遺跡から土錘が出ています。また近くの遺跡から紡錘車がでています。そこで、川漁業・畑作ゾーンと考えました。台地上で麻を栽培し、川で漁業を行っていたと考えます。川漁業・畑作ゾーンとしました。この遺跡分布域は古墳を伴っていません。水田耕作に伴う遺跡は古墳を伴います。従って、このゾーンの住人は社会的に劣位なポジションにいた可能性を感じます。
Fは花見川・浜田川圏に隣接する別圏域です。なお、小中台川筋には古墳が狭い範囲内に異様に多数分布します。暫定調査範囲内だけでも15あり、花見川・浜田川圏とほぼ同数です。また、横穴が存在することも気になります。小中台川筋にはそれなりの特殊事情があると予感できますから、興味が湧きます。また田喜野井川筋には鍛冶遺構が出土していますが、前方後円墳に対応する圏域(支配領域)毎に鍛冶施設があったに違いないと考えます。
以上のイメージを念頭に遺跡報告書の閲覧に入ります。
(東京湾流域の遺跡報告書閲覧の後、香取の海流域の予察検討を行い、その後報告書閲覧する予定です。)
2015年1月28日水曜日
古墳時代の水田開発可能地の検討
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.51 古墳時代の水田開発可能地の検討
2015.01.27記事「前方後円墳の把握」で東京湾岸の3つの谷津に対応するように3つの前方後円墳が存在していることがわかりました。
3つの谷津と対応する前方後円墳
前方後円墳は地域の上位クラスの首長存在と対応していたと考えることができますから、3つの谷津それぞれを生活領域とするグループが並存的に存在していたことになります。
(3つのグループの間の関係は後日検討することにします。)
当初自分は内心で田喜野井川や小中台川の谷津は狭小であるから、花見川谷津を支配する首長がこれらの狭小谷津も一緒に支配していたに違いないとタカをくくっていました。
予想が外れました。
なぜ予想が外れたか、考えて見ました。
答えは意外と早く見つかりました。
自分は無意識のなかで谷津谷底の広さを比較し、それが水田面積に比例し、ひいては首長の力の大きさに比例していると考えていました。
しかし、古墳時代の水田は狭小な谷津内でつくられていて、水面や荒地の拡がる広い谷津谷底は開発不可能であり、水田はつくられていなかったという知識を失念していたことに気がつきました。
古墳時代の技術力では河川増水に対応することはできなかったと考えます。
花見川、平戸川、印旛浦などの広い谷津谷底は水田耕作不可能な土地であったのです。
広い谷津谷底は支配領域の境となっていたことが上位ランク古墳の分布からわかります。
水田耕作は台地を刻む支流狭小谷津のなかにつくられていたと考えます。
古墳分布(円墳等のより下位の首長存在の分布)もこのような水田分布推定と対応しています。
古墳時代にあって、谷津谷底分布のどの付近までが水田耕作不可能地であり、どこらへんから水田耕作が可能であったか、的確な情報を持っていません。
しかし自分の思考レベルをアップするために、とりあえず感覚的・イメージ的に検討してみました。
次の図は現在の標高を0-2mは黄色、2-4mは水色、4-6mは紺色、6-8mは桃色、8-10mは白色、10m以上は赤色で表示した地形段彩図です。
谷津谷底の標高を示す地形段彩図
この地形段彩図で標高6m付近を境にそれより標高の低い土地は古代では水面、荒地などであり水田耕作は不可能であったと考えてみます。
この図に近代水田分布をオーバーレイしてみました。
近代水田分布と地形段彩図のオーバーレイ
近代水田分布は旧版25000分の1地形図(大正10年測量)の水田分布を転写したものです。
近代水田分布は源頭部までの谷津を利用しています。
田喜野井川の源頭部には古墳時代の状況は不明ですが、延喜式に寒川神社として記載されている神社と考えられている二宮神社が存在します。
また花見川源頭部には古墳時代の祭祀遺跡である子和清水遺跡が存在します。
このような情報から古墳時代には源頭部の水源を管理していたことが考えられます。従って、実際の水田がどの程度つくられていたかは不明であるとしても、水田耕作が可能であった範囲は近代と同じく源頭部まで含まれていたと考えることができます。
この情報と標高6m程度より低い土地は開発不可能地であったと考えると、つぎのような古墳時代水田分布推定図を描くことができます。
古墳時代水田分布推定図
この図を見ると、古墳時代人は水田開発について、花見川というくくりで土地を考えていなかったことがわかります。
古墳時代人が「広い」水田開発適地が拡がっている考えた場所(そして実際に水田開発された場所)のトップ3は田喜野井川谷津、浜田川谷津、小中台川谷津です。
花見川支流の谷津はそれより「狭い」水田開発適地になります。
このような予察的分析をしてみると、3つの河川谷津に対応して3つの前方後円墳が存在していることの意味が自分なりに判る様になりました。
2015.01.27記事「前方後円墳の把握」で東京湾岸の3つの谷津に対応するように3つの前方後円墳が存在していることがわかりました。
3つの谷津と対応する前方後円墳
前方後円墳は地域の上位クラスの首長存在と対応していたと考えることができますから、3つの谷津それぞれを生活領域とするグループが並存的に存在していたことになります。
(3つのグループの間の関係は後日検討することにします。)
当初自分は内心で田喜野井川や小中台川の谷津は狭小であるから、花見川谷津を支配する首長がこれらの狭小谷津も一緒に支配していたに違いないとタカをくくっていました。
予想が外れました。
なぜ予想が外れたか、考えて見ました。
答えは意外と早く見つかりました。
自分は無意識のなかで谷津谷底の広さを比較し、それが水田面積に比例し、ひいては首長の力の大きさに比例していると考えていました。
しかし、古墳時代の水田は狭小な谷津内でつくられていて、水面や荒地の拡がる広い谷津谷底は開発不可能であり、水田はつくられていなかったという知識を失念していたことに気がつきました。
古墳時代の技術力では河川増水に対応することはできなかったと考えます。
花見川、平戸川、印旛浦などの広い谷津谷底は水田耕作不可能な土地であったのです。
広い谷津谷底は支配領域の境となっていたことが上位ランク古墳の分布からわかります。
水田耕作は台地を刻む支流狭小谷津のなかにつくられていたと考えます。
古墳分布(円墳等のより下位の首長存在の分布)もこのような水田分布推定と対応しています。
古墳時代にあって、谷津谷底分布のどの付近までが水田耕作不可能地であり、どこらへんから水田耕作が可能であったか、的確な情報を持っていません。
しかし自分の思考レベルをアップするために、とりあえず感覚的・イメージ的に検討してみました。
次の図は現在の標高を0-2mは黄色、2-4mは水色、4-6mは紺色、6-8mは桃色、8-10mは白色、10m以上は赤色で表示した地形段彩図です。
谷津谷底の標高を示す地形段彩図
この地形段彩図で標高6m付近を境にそれより標高の低い土地は古代では水面、荒地などであり水田耕作は不可能であったと考えてみます。
この図に近代水田分布をオーバーレイしてみました。
近代水田分布と地形段彩図のオーバーレイ
近代水田分布は旧版25000分の1地形図(大正10年測量)の水田分布を転写したものです。
近代水田分布は源頭部までの谷津を利用しています。
田喜野井川の源頭部には古墳時代の状況は不明ですが、延喜式に寒川神社として記載されている神社と考えられている二宮神社が存在します。
また花見川源頭部には古墳時代の祭祀遺跡である子和清水遺跡が存在します。
このような情報から古墳時代には源頭部の水源を管理していたことが考えられます。従って、実際の水田がどの程度つくられていたかは不明であるとしても、水田耕作が可能であった範囲は近代と同じく源頭部まで含まれていたと考えることができます。
この情報と標高6m程度より低い土地は開発不可能地であったと考えると、つぎのような古墳時代水田分布推定図を描くことができます。
古墳時代水田分布推定図
この図を見ると、古墳時代人は水田開発について、花見川というくくりで土地を考えていなかったことがわかります。
古墳時代人が「広い」水田開発適地が拡がっている考えた場所(そして実際に水田開発された場所)のトップ3は田喜野井川谷津、浜田川谷津、小中台川谷津です。
花見川支流の谷津はそれより「狭い」水田開発適地になります。
このような予察的分析をしてみると、3つの河川谷津に対応して3つの前方後円墳が存在していることの意味が自分なりに判る様になりました。
2015年1月27日火曜日
前方後円墳分布の把握
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.50 前方後円墳分布の把握
2015.01.26記事「古墳の階層性に関する予察」で「古墳から見た社会階層秩序イメージ」予察図を作成しました。
この図は花見川-平戸川筋の暫定調査範囲内の情報だけで作成しているので、暫定調査範囲周辺の情報との関係を確認しておく必要があります。
そこで、社会階層の最上位に位置する前方後円墳について暫定調査範囲付近の様子を見てみました。
次に、暫定調査範囲付近に位置する白井市、船橋市、習志野市、千葉市花見川区、稲毛区、中央区、若葉区、四街道市、佐倉市、印西市、八千代市における前方後円墳の分布を示します。
暫定調査範囲周辺の前方後円墳の分布
この図から早速有用な情報を得ることが出来ました。
図に描きこんだように、東京湾岸では田喜野井川に対応して鷺沼古墳(A号墳)が、浜田川・花見川に対応して東鉄砲塚古墳群が、小中台川に対応して西海道古墳の存在を確認することができます。
この情報から、東鉄砲塚古墳群の影響範囲は小中台川には及んでいないことが確認できます。
早速、「古墳から見た社会階層秩序イメージ」予察図を次のように改訂しました。
古墳から見た社会階層秩序イメージ(2015.01.27予察)
2015.01.26記事「古墳の階層性に関する予察」で「古墳から見た社会階層秩序イメージ」予察図を作成しました。
この図は花見川-平戸川筋の暫定調査範囲内の情報だけで作成しているので、暫定調査範囲周辺の情報との関係を確認しておく必要があります。
そこで、社会階層の最上位に位置する前方後円墳について暫定調査範囲付近の様子を見てみました。
次に、暫定調査範囲付近に位置する白井市、船橋市、習志野市、千葉市花見川区、稲毛区、中央区、若葉区、四街道市、佐倉市、印西市、八千代市における前方後円墳の分布を示します。
暫定調査範囲周辺の前方後円墳の分布
この図から早速有用な情報を得ることが出来ました。
図に描きこんだように、東京湾岸では田喜野井川に対応して鷺沼古墳(A号墳)が、浜田川・花見川に対応して東鉄砲塚古墳群が、小中台川に対応して西海道古墳の存在を確認することができます。
この情報から、東鉄砲塚古墳群の影響範囲は小中台川には及んでいないことが確認できます。
早速、「古墳から見た社会階層秩序イメージ」予察図を次のように改訂しました。
古墳から見た社会階層秩序イメージ(2015.01.27予察)
2015年1月26日月曜日
古墳の階層性に関する予察
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.49 古墳の階層性に関する予察
2015.01.25記事「花見川-平戸川筋の古墳形式の把握」に示したように、古墳の種別分類とその分布が判りました。
また、墳形からみた社会階層性が前方後円墳→帆立貝形古墳→円墳→方墳→横穴の順に、上位から下位にランクづけられるという想定もしました。
そこで、これらの情報から古墳の階層性に関する予察を次に行います。
なお、古墳の時代や規模について十分に検討していないのですが、とりあえず自分の中に一定のイメージをつくるための、あくまでも字義通りの予察(あらかじめ感じること)をしてみることにします。
古墳の時代や規模についての情報はこれから始める遺跡報告書の全閲覧によって得ます。
1 古墳の分布
種別古墳毎の分布図を1枚の図にオーバーレイした図を作成しました。
古墳オーバーレイ図
この古墳オーバーレイ図を基図にして古墳階層性について検討します。
2 古墳密集地の把握
古墳分布図から、古墳密集地の分布図を作成しました。
古墳密集地の分布
上位の古墳(前方後円墳、帆立貝形古墳)は全て近隣に下位の古墳を従えていて、古墳密集地帯となっています。これは上位古墳被葬者(首長クラス)一族の古墳が同じ場所に集中した結果であると考えます。
また円墳が密集する場所があります。この場所は上位古墳被葬者一族に服属しているよりローカルな小首長一族の古墳であると考えます。
3 古墳から見た社会階層秩序イメージ
古墳密集地分布図から社会階層秩序を予察的にイメージしてみました。
古墳から見た社会階層秩序イメージ(2015.01.26予察)
このイメージは古墳密集地分布図を素に、自分が理解するこの付近の地形等の情報に基づいて描いたものです。
階層秩序イメージは3つの領域(花見川流域、平戸川流域・印旛浦南岸、印旛浦北岸)に対応して存在していると考えます。
花見川流域では東鉄砲図化古墳群を頂点に花見川流域や小中台川流域の円墳密集地が下位に連なると考えます。
平戸川流域・印旛浦南岸では根上神社古墳を頂点に高台南古墳を従え、さらに平戸川流域と印旛浦南岸の広域の古墳密集地が下位に連なると考えます。
印旛浦北岸では船穂町田遺跡を頂点に西野原第3号墳が連なると考えます。
報告書閲覧等で遺跡情報が豊富になれば以上の社会階層秩序イメージをより合理的なものに改訂していくことができると考えます。
2015.01.25記事「花見川-平戸川筋の古墳形式の把握」に示したように、古墳の種別分類とその分布が判りました。
また、墳形からみた社会階層性が前方後円墳→帆立貝形古墳→円墳→方墳→横穴の順に、上位から下位にランクづけられるという想定もしました。
そこで、これらの情報から古墳の階層性に関する予察を次に行います。
なお、古墳の時代や規模について十分に検討していないのですが、とりあえず自分の中に一定のイメージをつくるための、あくまでも字義通りの予察(あらかじめ感じること)をしてみることにします。
古墳の時代や規模についての情報はこれから始める遺跡報告書の全閲覧によって得ます。
1 古墳の分布
種別古墳毎の分布図を1枚の図にオーバーレイした図を作成しました。
古墳オーバーレイ図
この古墳オーバーレイ図を基図にして古墳階層性について検討します。
2 古墳密集地の把握
古墳分布図から、古墳密集地の分布図を作成しました。
古墳密集地の分布
上位の古墳(前方後円墳、帆立貝形古墳)は全て近隣に下位の古墳を従えていて、古墳密集地帯となっています。これは上位古墳被葬者(首長クラス)一族の古墳が同じ場所に集中した結果であると考えます。
また円墳が密集する場所があります。この場所は上位古墳被葬者一族に服属しているよりローカルな小首長一族の古墳であると考えます。
3 古墳から見た社会階層秩序イメージ
古墳密集地分布図から社会階層秩序を予察的にイメージしてみました。
古墳から見た社会階層秩序イメージ(2015.01.26予察)
このイメージは古墳密集地分布図を素に、自分が理解するこの付近の地形等の情報に基づいて描いたものです。
階層秩序イメージは3つの領域(花見川流域、平戸川流域・印旛浦南岸、印旛浦北岸)に対応して存在していると考えます。
花見川流域では東鉄砲図化古墳群を頂点に花見川流域や小中台川流域の円墳密集地が下位に連なると考えます。
平戸川流域・印旛浦南岸では根上神社古墳を頂点に高台南古墳を従え、さらに平戸川流域と印旛浦南岸の広域の古墳密集地が下位に連なると考えます。
印旛浦北岸では船穂町田遺跡を頂点に西野原第3号墳が連なると考えます。
報告書閲覧等で遺跡情報が豊富になれば以上の社会階層秩序イメージをより合理的なものに改訂していくことができると考えます。
2015年1月25日日曜日
花見川-平戸川筋の古墳形式の把握
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.48 花見川-平戸川筋の古墳形式の把握
1 違和感の原因は基礎検討欠如
2015.01.23記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々」を書いている途中から何かすっきりしないものを感じていました。
記事を書いてアップしてみると違和感がはっきりと感じられるようになり、記事にその違和感の理由を追記しました。この記事は全面書き換えする予定です。
その後、違和感のある記事を書いた主因は、自分の基礎知識がきわめて虚弱であるため、例えば次のような基礎的な思考(作業)をしていなかったためであることがわかりました。
ア 古墳被葬者の階層区分と分布(古墳形式と階層秩序との関係)
イ 古墳被葬者(が属する集団)の支配領域
ウ 古墳被葬者(が属する集団)の支配領域内における空間構成(遺跡構成から判明する生活活動空間構成)
エ 支配領域における古墳設置場所タイプ(支配領域内で古墳設置場所を決める主要因子)
要するに遺跡情報について、その内容を何も検討しないで、表層の情報だけを自分の仮説検討に使用したことにより、違和感のある記事を書いてしまったのです。
早速、上記ア~エという基礎的検討してみたいと思います
この記事ではまず古墳形式別分布について検討してみます
2 古墳等種別と階層秩序との対応
古墳に横穴を加え、種別基数を求めると次のようになります。
花見川-平戸川筋の古墳等種別基数
古墳種別(墳形)とその古墳被葬者の社会階層は次のように対応しているものと想定します。
古墳等の形と階層秩序の対応(想定)
上位の古墳被葬者は広域を支配し、下位の古墳被葬者は上位古墳被葬者の支配領域の中で次位の支配者として狭い領域を支配したと考えます。
社会階層秩序のピラミッド構造が古墳墳形に表現されていると想定します。
3 種別の古墳等分布
3-1 前方後円墳・帆立貝形古墳
階層秩序最上位の前方後円墳と次位の帆立貝形古墳のリストは次の通りです。
花見川-平戸川筋の前方後円墳・帆立貝形古墳リスト
たまたま私が知っている情報ですが、高台南古墳のすぐ近くに円墳数基の存在が現地では知られていますので、備考欄に記述しておきました。重要な情報であると考えます。
そのうち1基の円墳は鷹之台カンツリー倶楽部のコース真ん中にあるのですが、「地元従業員の方が古墳として認識し、コースの邪魔になる地物であるが文化財保全上の視点から改変してこなかった」(鷹之台カンツリー倶楽部支配人談)という経緯があり、地元小学校の総合学習の対象となっています。
鷹之台カンツリー倶楽部内の埋蔵文化財未登録円墳
このリストを分布図にすると次のようになります。
前方後円墳、帆立貝形古墳の分布
この分布図はこの付近の社会階層秩序の上位の被葬者の古墳です。この分布図からいろいろな情報を引き出すことができます。検討は次の記事で行います。
3-2 円墳
最もポピュラーな古墳である円墳の分布を次に示します。
円墳の分布
前方後円墳や帆立貝形古墳の近くでは円墳が集中する傾向が見られます。同族の墓域となっていたと考えます。
孤立した円墳はローカルな小首長のものと考えます。
3-3 方墳、横穴
方墳、横穴の分布を次に示します。
方墳、横穴の分布
方墳の被葬者は首長層のなかでは最も劣位であったと考えます。被葬者の出自がどのようなものであるか気になります。
横穴は一般に古墳分布域には分布しないのですが、調査範囲に1つ分布します。東京湾岸の横穴としては最も北に位置するものです。(「城山横穴 シロヤマ」千葉市稲毛区小中台町城山)
この情報を使って、次の記事から上記1のア~エについて検討したいと思います。
……………………………………………………………………
お知らせ
この記事はこれまでの記事表題の付け方に従えば、「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その6 花見川-平戸川筋の古墳形式の把握」となります。
しかし今後「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その○」と表示すべき記事を多数掲載することになりそうな展開となってきました。
毎回同じ文字が表題に出てくると記事第一印象のインパクトが減じます。
また本来の表題として主張したい内容が表題の後半に出てきて、判りずらいという弊害も生まれます。WEBで紹介されるときも、同じ理由で不利な場面が増えます。
こうした理由から、途中ですが、「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その○」表記は止めることにします。
現在、古代における花見川-平戸川筋水運路と船越の実在性と意義(効果)の検証をするために、ビフォー情報として古墳時代遺跡情報の分析、アフター情報として奈良・平安時代遺跡情報の分析をしています。
当面、そのうちの古墳時代遺跡情報分析を集中的に行います。
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1 違和感の原因は基礎検討欠如
2015.01.23記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々」を書いている途中から何かすっきりしないものを感じていました。
記事を書いてアップしてみると違和感がはっきりと感じられるようになり、記事にその違和感の理由を追記しました。この記事は全面書き換えする予定です。
その後、違和感のある記事を書いた主因は、自分の基礎知識がきわめて虚弱であるため、例えば次のような基礎的な思考(作業)をしていなかったためであることがわかりました。
ア 古墳被葬者の階層区分と分布(古墳形式と階層秩序との関係)
イ 古墳被葬者(が属する集団)の支配領域
ウ 古墳被葬者(が属する集団)の支配領域内における空間構成(遺跡構成から判明する生活活動空間構成)
エ 支配領域における古墳設置場所タイプ(支配領域内で古墳設置場所を決める主要因子)
要するに遺跡情報について、その内容を何も検討しないで、表層の情報だけを自分の仮説検討に使用したことにより、違和感のある記事を書いてしまったのです。
早速、上記ア~エという基礎的検討してみたいと思います
この記事ではまず古墳形式別分布について検討してみます
2 古墳等種別と階層秩序との対応
古墳に横穴を加え、種別基数を求めると次のようになります。
花見川-平戸川筋の古墳等種別基数
古墳種別(墳形)とその古墳被葬者の社会階層は次のように対応しているものと想定します。
古墳等の形と階層秩序の対応(想定)
上位の古墳被葬者は広域を支配し、下位の古墳被葬者は上位古墳被葬者の支配領域の中で次位の支配者として狭い領域を支配したと考えます。
社会階層秩序のピラミッド構造が古墳墳形に表現されていると想定します。
3 種別の古墳等分布
3-1 前方後円墳・帆立貝形古墳
階層秩序最上位の前方後円墳と次位の帆立貝形古墳のリストは次の通りです。
花見川-平戸川筋の前方後円墳・帆立貝形古墳リスト
たまたま私が知っている情報ですが、高台南古墳のすぐ近くに円墳数基の存在が現地では知られていますので、備考欄に記述しておきました。重要な情報であると考えます。
そのうち1基の円墳は鷹之台カンツリー倶楽部のコース真ん中にあるのですが、「地元従業員の方が古墳として認識し、コースの邪魔になる地物であるが文化財保全上の視点から改変してこなかった」(鷹之台カンツリー倶楽部支配人談)という経緯があり、地元小学校の総合学習の対象となっています。
鷹之台カンツリー倶楽部内の埋蔵文化財未登録円墳
このリストを分布図にすると次のようになります。
前方後円墳、帆立貝形古墳の分布
この分布図はこの付近の社会階層秩序の上位の被葬者の古墳です。この分布図からいろいろな情報を引き出すことができます。検討は次の記事で行います。
3-2 円墳
最もポピュラーな古墳である円墳の分布を次に示します。
円墳の分布
前方後円墳や帆立貝形古墳の近くでは円墳が集中する傾向が見られます。同族の墓域となっていたと考えます。
孤立した円墳はローカルな小首長のものと考えます。
3-3 方墳、横穴
方墳、横穴の分布を次に示します。
方墳、横穴の分布
方墳の被葬者は首長層のなかでは最も劣位であったと考えます。被葬者の出自がどのようなものであるか気になります。
横穴は一般に古墳分布域には分布しないのですが、調査範囲に1つ分布します。東京湾岸の横穴としては最も北に位置するものです。(「城山横穴 シロヤマ」千葉市稲毛区小中台町城山)
この情報を使って、次の記事から上記1のア~エについて検討したいと思います。
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お知らせ
この記事はこれまでの記事表題の付け方に従えば、「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その6 花見川-平戸川筋の古墳形式の把握」となります。
しかし今後「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その○」と表示すべき記事を多数掲載することになりそうな展開となってきました。
毎回同じ文字が表題に出てくると記事第一印象のインパクトが減じます。
また本来の表題として主張したい内容が表題の後半に出てきて、判りずらいという弊害も生まれます。WEBで紹介されるときも、同じ理由で不利な場面が増えます。
こうした理由から、途中ですが、「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その○」表記は止めることにします。
現在、古代における花見川-平戸川筋水運路と船越の実在性と意義(効果)の検証をするために、ビフォー情報として古墳時代遺跡情報の分析、アフター情報として奈良・平安時代遺跡情報の分析をしています。
当面、そのうちの古墳時代遺跡情報分析を集中的に行います。
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2015年1月24日土曜日
2015.01.24 今朝の花見川
昨日は雨で散歩ができませんでしたから、今朝の花見川風景はいつもより明るく見えました。
花見川 弁天橋から下流
雲が印象的な風景でした。
花見川 弁天橋から上流
地平線が明るい橙色である風景は一瞬(数分?)ですから、気持ちがよい風景です。
弁天橋
日の出
この道路は鉄道連隊敷設軍用軌道跡です。
花見川 弁天橋から下流
雲が印象的な風景でした。
花見川 弁天橋から上流
地平線が明るい橙色である風景は一瞬(数分?)ですから、気持ちがよい風景です。
弁天橋
日の出
この道路は鉄道連隊敷設軍用軌道跡です。
2015年1月23日金曜日
花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その5 古代谷津地形把握のための補助資料作成
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.47 その5 古代谷津地形把握のための補助資料作成
古墳時代遺跡と奈良・平安時代遺跡の情報を分析していますが、地形特に谷津との関係を詳しく分析したいと思っています。
現在地形は5mメッシュで10㎝単位で正確に把握できています。
しかし、戦後高度成長期以降の宅地開発により谷津地形が埋め立てられてしまい、自然地形としての谷津地形が判らなくなっているところが各所に存在します。
そこで、5mメッシュによる地形把握を補完して古代谷津地形を正確に把握するために補助資料を作成しました。
補助資料は旧版25000分の1地形図(大正10年測量)の水田分布を抜き出した資料です。
戦前の地形図で判明する水田分布は自然地形としての谷津地形を利用してつくられた水田であり、水田分布から自然地形としての谷津地形を知ることができます。
旧版25000地形図(大正10年測量)
旧版25000地形図に水田分布を記入
旧版25000地形図の水田分布を地形段彩図に記入
拡大図における地形段彩図(現状地形)と戦前水田分布記入の様子
古墳時代遺跡と奈良・平安時代遺跡の情報を分析していますが、地形特に谷津との関係を詳しく分析したいと思っています。
現在地形は5mメッシュで10㎝単位で正確に把握できています。
しかし、戦後高度成長期以降の宅地開発により谷津地形が埋め立てられてしまい、自然地形としての谷津地形が判らなくなっているところが各所に存在します。
そこで、5mメッシュによる地形把握を補完して古代谷津地形を正確に把握するために補助資料を作成しました。
補助資料は旧版25000分の1地形図(大正10年測量)の水田分布を抜き出した資料です。
戦前の地形図で判明する水田分布は自然地形としての谷津地形を利用してつくられた水田であり、水田分布から自然地形としての谷津地形を知ることができます。
旧版25000地形図(大正10年測量)
旧版25000地形図に水田分布を記入
旧版25000地形図の水田分布を地形段彩図に記入
拡大図における地形段彩図(現状地形)と戦前水田分布記入の様子
花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.46 花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その4 古墳をつくらない人々
1 古墳と古墳以外遺跡の分離
古墳時代遺跡を古墳及び横穴遺構出土遺跡と古墳以外の遺物・遺構出土遺跡に分離して、その関係を分析します。
「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」
●古墳時代遺跡分布の特徴
古墳時代遺跡は在地勢力の活動がそのまま反映した資料であると考えます。
つまり、国家政策による計画的な土地開発がまだ行われていない、自然発生的開発状況を示していると考えます。
2つの分布図を見ると、香取の海流域では印旛浦、平戸川をメインにして流入河川(神崎川、鈴身川、小竹川、桑納川、高津川、勝田川)を含めて河川・湖沼沿いに、つまり谷津沿いに多くの遺跡が分布しています。
東京湾流域でも花見川(及び犢橋川)、浜田川、小中台川の谷津沿いに遺跡が分布しています。
多くの遺跡が谷津沿いに分布することは、この時代の主な生業が谷津谷底における水田耕作であったためであると考えます。この遺跡分布図からは水田耕作以外の生業、例えば牧(牧場経営)などを想起することはできません。
2 古墳と古墳以外遺跡の関係分析
古墳及び横穴遺構出土遺跡は54箇所です。うち、横穴遺跡は「城山横穴」(千葉市稲毛区小中台町城山)1箇所です。
古墳以外の遺物・遺構出土遺跡は108遺跡です。
これを流域界別に見ると次のようなグラフになります。
流域別古墳、古墳以外遺跡数(古墳時代遺跡)
このグラフを見ると、東京湾流域の範囲では香取の海流域の範囲と比べて、古墳の数に対して古墳以外遺跡の割合が多くなっています。
1古墳当りの古墳以外遺跡数がいくつになるか計算すると次のようになります。
流域別 古墳以外遺跡数/古墳数(古墳時代遺跡)
つまり、東京湾流域では香取の海流域と比べて、1古墳に対応する古墳以外遺跡(≒集落遺跡)が多くなっているので。その理由が気になります。
その理由を調べるために、再度上記分布図を分析してみることにします。
次の図は古墳分布図(「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に、隣接する古墳をくくった古墳分布域を記入したものです。
(古墳分布域の設定は、ここでは厳密ではありません。後日QGISのバッファー生成機能を利用して厳密な検討を予定しています。)
古墳分布域を記入した古墳分布図
古墳分布域を古墳以外遺跡分布図(「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に投影(プロット)するとともに、古墳分布域から離れた遺跡を1つの域(古墳分布から離れた遺跡域)として記入してみました。
古墳分布域及び古墳から離れた遺跡域を投影・記入した古墳以外遺跡分布図
この図から、これまで気がつかなかった重要情報を見つけだすことができました。
東京湾流域では、古墳分布域と古墳分布から離れた遺跡域が海岸線に平行する2つのゾーンとして分離していることがわかります。
古墳分布域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは広い谷底を有する谷津沿いに分布しています。谷津谷底は水田耕作に適した場所です。
一方、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは狭い谷津沿いや谷津源流部に位置しています。谷津谷底の水田耕作には相対的に劣悪な場所です。
香取の海流域においても、東京湾流域程には明瞭ではありませんが、古墳分布域に所在する遺跡は水田耕作適地の谷津近傍に、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡は水田耕作には劣悪な谷津近傍に位置しています。
以上の検討から、古墳時代の東京湾流域では、水田耕作適地の近くで古墳を造って生活していた人々の遺跡(A遺跡とします)と水田耕作劣悪地で古墳をつくらないで生活していた人々の遺跡(B遺跡とします)があることがわかりました。
香取の海流域でもA遺跡とB遺跡があるのですが、東京湾流域と比べB遺跡の割合が少ないようです。
A遺跡は古墳をつくる人々の遺跡、B遺跡は古墳をつくらない人々の遺跡と考えることができます。
A遺跡を残した人々はこの地域を支配する人々、B遺跡を残した人々は被支配環境下にあった人々と考えます。
3 古墳分布域等の奈良・平安時代遺跡への投影
古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を奈良時代・平安時代遺跡分布図に投影してみました。
古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を投影した奈良時代・平安時代遺跡分布図
東京湾流域では古墳から離れた遺跡域に奈良・平安時代遺跡の分布が少なくなっています。
単純化していえば、古墳時代に被支配下にあった人びとが奈良・平安時代になると消えたというこです。
その理由の仮説は2015.01.22記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その3 流域別に見た遺跡数変化」で次のように書いたことによると考えます。
ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。
香取の海流域でも古墳から離れた遺跡域では、周辺の開発が急ピッチで進んでいるにも関わらず、奈良・平安時代の遺跡数はあまり増えていません。古墳時代に被支配下に在った人びとの居住する区域は奈良・平安時代に開発が行われなかったようです。
……………………………………………………………………
追記【重要】 2015.01.24
1 データミス
この記事を書いた後、「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の振り分けデータに間違いがあることがわかりました。
間違いが7箇所にものぼるので画像は修正版と差し替える必要があります。
データ修正に伴い、検討内容に影響する部分の記述修正も必要になります。
2 的確性を欠く思考
同時に、古墳を伴わない遺跡が「被支配環境下にある人々」が残したという記述は飛躍しすぎていて、そのような認識だけで考えることは的確ではないと考えるようになりました。
特に、古墳を伴わない遺跡の内、谷津源頭部に存在する遺跡は、居住の場ではなく、別の重要な機能を有する遺跡であるかもしれないと気がつき出しました。
谷津源頭部に立地する遺跡のうち、子和清水遺跡(千葉市花見川区三角町)は古墳時代には儀式の場であり、供献用のミニチュア土器などが出土しています。
子和清水遺跡出土供献用ミニチュア土器
2011.09.19記事「子和清水遺跡の出土物閲覧6」参照
谷津源頭部に存在する古墳時代遺跡の意義として、「水田耕作の水源の場であり、豊作を祈願する重要な祭祀の場」というイメージで考えることが重要です。
古墳がつくられたゾーンと古墳がつくられなかったゾーンの違いが、何によるものか、思考を深めたいと思います。
3 古墳時代と奈良・平安時代の遺跡をつなぐ思考を深める必要性
古墳時代に古墳を伴わない遺跡分布地域は、奈良・平安時代になると開発から取り残されたり、廃れたという発想は当面自分の作業仮説として使っていこうと思います。
この発想(作業仮説)は様々な情報を結び合わせていく接着剤のような役割を果たす重要なものです。
しかし、背景となる情報が不足し、少し雑な印象を自分でも持ち始めているので、思考を深めて、もう少し洗練されたものにしていきたいと思います。
以上のような3つの理由により、この記事内容を別の新規記事として、近々全面書き換えします。
この記事は最初の思考がこういうものであったという1つの記録として、そのまま掲載します。
……………………………………………………………………
1 古墳と古墳以外遺跡の分離
古墳時代遺跡を古墳及び横穴遺構出土遺跡と古墳以外の遺物・遺構出土遺跡に分離して、その関係を分析します。
「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」
●古墳時代遺跡分布の特徴
古墳時代遺跡は在地勢力の活動がそのまま反映した資料であると考えます。
つまり、国家政策による計画的な土地開発がまだ行われていない、自然発生的開発状況を示していると考えます。
2つの分布図を見ると、香取の海流域では印旛浦、平戸川をメインにして流入河川(神崎川、鈴身川、小竹川、桑納川、高津川、勝田川)を含めて河川・湖沼沿いに、つまり谷津沿いに多くの遺跡が分布しています。
東京湾流域でも花見川(及び犢橋川)、浜田川、小中台川の谷津沿いに遺跡が分布しています。
多くの遺跡が谷津沿いに分布することは、この時代の主な生業が谷津谷底における水田耕作であったためであると考えます。この遺跡分布図からは水田耕作以外の生業、例えば牧(牧場経営)などを想起することはできません。
2 古墳と古墳以外遺跡の関係分析
古墳及び横穴遺構出土遺跡は54箇所です。うち、横穴遺跡は「城山横穴」(千葉市稲毛区小中台町城山)1箇所です。
古墳以外の遺物・遺構出土遺跡は108遺跡です。
これを流域界別に見ると次のようなグラフになります。
流域別古墳、古墳以外遺跡数(古墳時代遺跡)
このグラフを見ると、東京湾流域の範囲では香取の海流域の範囲と比べて、古墳の数に対して古墳以外遺跡の割合が多くなっています。
1古墳当りの古墳以外遺跡数がいくつになるか計算すると次のようになります。
流域別 古墳以外遺跡数/古墳数(古墳時代遺跡)
つまり、東京湾流域では香取の海流域と比べて、1古墳に対応する古墳以外遺跡(≒集落遺跡)が多くなっているので。その理由が気になります。
その理由を調べるために、再度上記分布図を分析してみることにします。
次の図は古墳分布図(「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に、隣接する古墳をくくった古墳分布域を記入したものです。
(古墳分布域の設定は、ここでは厳密ではありません。後日QGISのバッファー生成機能を利用して厳密な検討を予定しています。)
古墳分布域を記入した古墳分布図
古墳分布域を古墳以外遺跡分布図(「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の略称、以下同じ)に投影(プロット)するとともに、古墳分布域から離れた遺跡を1つの域(古墳分布から離れた遺跡域)として記入してみました。
古墳分布域及び古墳から離れた遺跡域を投影・記入した古墳以外遺跡分布図
この図から、これまで気がつかなかった重要情報を見つけだすことができました。
東京湾流域では、古墳分布域と古墳分布から離れた遺跡域が海岸線に平行する2つのゾーンとして分離していることがわかります。
古墳分布域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは広い谷底を有する谷津沿いに分布しています。谷津谷底は水田耕作に適した場所です。
一方、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡(古墳以外の遺跡≒集落遺跡)の多くは狭い谷津沿いや谷津源流部に位置しています。谷津谷底の水田耕作には相対的に劣悪な場所です。
香取の海流域においても、東京湾流域程には明瞭ではありませんが、古墳分布域に所在する遺跡は水田耕作適地の谷津近傍に、古墳から離れた遺跡域に所在する遺跡は水田耕作には劣悪な谷津近傍に位置しています。
以上の検討から、古墳時代の東京湾流域では、水田耕作適地の近くで古墳を造って生活していた人々の遺跡(A遺跡とします)と水田耕作劣悪地で古墳をつくらないで生活していた人々の遺跡(B遺跡とします)があることがわかりました。
香取の海流域でもA遺跡とB遺跡があるのですが、東京湾流域と比べB遺跡の割合が少ないようです。
A遺跡は古墳をつくる人々の遺跡、B遺跡は古墳をつくらない人々の遺跡と考えることができます。
A遺跡を残した人々はこの地域を支配する人々、B遺跡を残した人々は被支配環境下にあった人々と考えます。
3 古墳分布域等の奈良・平安時代遺跡への投影
古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を奈良時代・平安時代遺跡分布図に投影してみました。
古墳分布域と古墳から離れた遺跡域を投影した奈良時代・平安時代遺跡分布図
東京湾流域では古墳から離れた遺跡域に奈良・平安時代遺跡の分布が少なくなっています。
単純化していえば、古墳時代に被支配下にあった人びとが奈良・平安時代になると消えたというこです。
その理由の仮説は2015.01.22記事「花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その3 流域別に見た遺跡数変化」で次のように書いたことによると考えます。
ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。
香取の海流域でも古墳から離れた遺跡域では、周辺の開発が急ピッチで進んでいるにも関わらず、奈良・平安時代の遺跡数はあまり増えていません。古墳時代に被支配下に在った人びとの居住する区域は奈良・平安時代に開発が行われなかったようです。
……………………………………………………………………
追記【重要】 2015.01.24
1 データミス
この記事を書いた後、「古墳及び横穴遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」と「古墳以外の遺物・遺構出土遺跡(古墳時代遺跡)」の振り分けデータに間違いがあることがわかりました。
間違いが7箇所にものぼるので画像は修正版と差し替える必要があります。
データ修正に伴い、検討内容に影響する部分の記述修正も必要になります。
2 的確性を欠く思考
同時に、古墳を伴わない遺跡が「被支配環境下にある人々」が残したという記述は飛躍しすぎていて、そのような認識だけで考えることは的確ではないと考えるようになりました。
特に、古墳を伴わない遺跡の内、谷津源頭部に存在する遺跡は、居住の場ではなく、別の重要な機能を有する遺跡であるかもしれないと気がつき出しました。
谷津源頭部に立地する遺跡のうち、子和清水遺跡(千葉市花見川区三角町)は古墳時代には儀式の場であり、供献用のミニチュア土器などが出土しています。
子和清水遺跡出土供献用ミニチュア土器
2011.09.19記事「子和清水遺跡の出土物閲覧6」参照
谷津源頭部に存在する古墳時代遺跡の意義として、「水田耕作の水源の場であり、豊作を祈願する重要な祭祀の場」というイメージで考えることが重要です。
古墳がつくられたゾーンと古墳がつくられなかったゾーンの違いが、何によるものか、思考を深めたいと思います。
3 古墳時代と奈良・平安時代の遺跡をつなぐ思考を深める必要性
古墳時代に古墳を伴わない遺跡分布地域は、奈良・平安時代になると開発から取り残されたり、廃れたという発想は当面自分の作業仮説として使っていこうと思います。
この発想(作業仮説)は様々な情報を結び合わせていく接着剤のような役割を果たす重要なものです。
しかし、背景となる情報が不足し、少し雑な印象を自分でも持ち始めているので、思考を深めて、もう少し洗練されたものにしていきたいと思います。
以上のような3つの理由により、この記事内容を別の新規記事として、近々全面書き換えします。
この記事は最初の思考がこういうものであったという1つの記録として、そのまま掲載します。
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2015年1月22日木曜日
花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その3 流域別に見た遺跡数変化
花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.45 花見川-平戸川筋の遺跡分布分析 その3 流域別に見た遺跡数変化
時代変化による遺跡数変化の様子を流域別に見てみます。
1 分水界の様子
調査範囲における古代の分水界の様子を図に表現してみました。
古代における香取の海と東京湾の分水界の様子
参考 流域界別の面積
ただし、古代において水面であった土地の面積も含めています。
2 流域別遺跡数
古墳時代遺跡分布図と奈良・平安時代遺跡分布図に分水界を記入して、流域別遺跡数をカウントしてみました。
古墳時代遺跡分布と遺跡数カウント
奈良・平安時代遺跡分布と遺跡数カウント
この結果をグラフにあらわすと次のようになります。
時代別流域別遺跡数
遺跡数合計を見ると、古墳時代162から奈良・平安時代179と10%ほど遺跡数が増加しています。
流域界別に見ると、香取の海流域は古墳時代93から奈良・平安時代141と大幅に増加しています。
ところが、東京湾水系は69から38へと半減しています。
流域界別にみると極端な特性を見るとことができます。
遺跡密度をグラフにすると、この極端な特性がそのまま表現されます。
流域界時代別遺跡密度
遺跡密度をみると、古墳時代は東京湾流域の方が香取の海流域より高かったのですが、奈良・平安時代になると逆転します。
律令国家の支配体制が確立し、国家はこの地域で水運社会インフラとしての船越を建設して周辺地域の地域開発も積極的に推進したと考えますが、香取の海流域と東京湾流域との極端な差異は、その理由検討の興味を否が応でもそそります。
この差異の理由は現時点では次のように考えています。
ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。
イ 香取の海流域で奈良・平安時代になると遺跡数が増加する理由(仮説)
これまで東京湾との繋がりが弱かった香取の海流域が、船越等水運インフラ整備により東京湾流域と直結して地域開発好適地となったため地域開発が急速に進展した。
東京湾流域に直結すると、下総国府や国家中央との交通が格段に便利になり、地域開発上きわめて有利になる。
この仮説検討がどの程度確からしいかはまだ判断ができませんが、次の記事からより属地的検討に入り、この仮説を検証して行きます。
時代変化による遺跡数変化の様子を流域別に見てみます。
1 分水界の様子
調査範囲における古代の分水界の様子を図に表現してみました。
古代における香取の海と東京湾の分水界の様子
参考 流域界別の面積
ただし、古代において水面であった土地の面積も含めています。
2 流域別遺跡数
古墳時代遺跡分布図と奈良・平安時代遺跡分布図に分水界を記入して、流域別遺跡数をカウントしてみました。
古墳時代遺跡分布と遺跡数カウント
この結果をグラフにあらわすと次のようになります。
時代別流域別遺跡数
遺跡数合計を見ると、古墳時代162から奈良・平安時代179と10%ほど遺跡数が増加しています。
流域界別に見ると、香取の海流域は古墳時代93から奈良・平安時代141と大幅に増加しています。
ところが、東京湾水系は69から38へと半減しています。
流域界別にみると極端な特性を見るとことができます。
遺跡密度をグラフにすると、この極端な特性がそのまま表現されます。
流域界時代別遺跡密度
遺跡密度をみると、古墳時代は東京湾流域の方が香取の海流域より高かったのですが、奈良・平安時代になると逆転します。
律令国家の支配体制が確立し、国家はこの地域で水運社会インフラとしての船越を建設して周辺地域の地域開発も積極的に推進したと考えますが、香取の海流域と東京湾流域との極端な差異は、その理由検討の興味を否が応でもそそります。
この差異の理由は現時点では次のように考えています。
ア 東京湾流域で奈良・平安時代になると遺跡数が減少する理由(仮説)
花見川河口津は軍港としての機能を有し、玄蕃所(治部省玄蕃寮の東国出先)がつくられ、蝦夷俘囚の収容所として機能した。従ってこの周辺一帯が特殊機密地域となり、周辺住民と俘囚との接触等を防ぐために、国家が一般住民の居住に制限を加えた。
イ 香取の海流域で奈良・平安時代になると遺跡数が増加する理由(仮説)
これまで東京湾との繋がりが弱かった香取の海流域が、船越等水運インフラ整備により東京湾流域と直結して地域開発好適地となったため地域開発が急速に進展した。
東京湾流域に直結すると、下総国府や国家中央との交通が格段に便利になり、地域開発上きわめて有利になる。
この仮説検討がどの程度確からしいかはまだ判断ができませんが、次の記事からより属地的検討に入り、この仮説を検証して行きます。
2015.01.22 今朝の花見川
今朝の花見川は雨上がりで空気に湿気が充満して、寒さを緩和してくれるような感じを受け、自分には快適な環境でした。
曇天で光量がすくなく、撮った写真は暗いものですが、このような写真があってはじめて晴天の日の出写真の素晴らしさが浮かび上がります。
今朝の花見川 横戸緑地下 6:38
今朝の花見川 トーチカ 6:43
今朝の花見川 弁天橋から下流 6:58
今朝の花見川 弁天橋から上流 7:00
弁天橋 6:57
自動車がまだライトをつけていました。
曇天で光量がすくなく、撮った写真は暗いものですが、このような写真があってはじめて晴天の日の出写真の素晴らしさが浮かび上がります。
今朝の花見川 横戸緑地下 6:38
今朝の花見川 トーチカ 6:43
今朝の花見川 弁天橋から下流 6:58
今朝の花見川 弁天橋から上流 7:00
弁天橋 6:57
自動車がまだライトをつけていました。