花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.123 墨書土器出土件数千葉県第1位の八千代市白幡前遺跡の意義
1 墨書土器出土件数上位25遺跡の考察
千葉県主要部の墨書土器出土遺跡分布図
墨書土器出土上位25遺跡の分布を見て次の考察を行いました。
墨書土器が多量に出土するということは一部の住人が文字を使っていたのではなく、多くの一般住民が文字をつかっていたこと示しています。
多くの一般住民が、少なくとも、図像レベルの認識だとしても、それが意味をもつ「文字」として認識して、墨書したのです。
それは、文字の威力を使って人々をプロジェクトに(軍事兵站基地業務の労働に)動員することが行われた結果生じた現象です。
音声としての言葉だけでなく、視覚に訴える文字の威力を使えばより高度な集団動員が可能であったので、そうした高度な集団動員が行われた場所が墨書土器出土の多い場所です。
つまり、墨書土器出土件数上位25遺跡は、一般人集団を高度に組織して律令国家の各種プロジェクトを実施した中心地であったと考えます。
ですから、墨書土器出土件数上位25遺跡は、「一般農業集落」とはかけ離れた、軍事兵站・輸送に強く係る、サービス面の活動が大きな側面となる集落であったと考えます。高次機能を有する集落であったと思います。
こうした観点から25遺跡の意義を考察してみました。
●東海道水運支路沿いの遺跡
a 八千代市権現後、北海道、井戸向、白幡前、高津新山、村上込の内
b 佐倉市江原台
c 成田市山口、加良部、囲護台
a、b、cは東京湾-花見川-印旛浦を通る東海道水運支路沿いの蝦夷戦争時代の軍事兵站・輸送基地であると推定します。
東京湾方面から陸奥国方面へ向かう場合、東京湾岸検見川台地の直道遺跡・居寒台遺跡-a-b-cの順で宿泊しながら物資・兵員等の輸送を行っていたものと推定します。
c 成田市山口、加良部、囲護台は東海道水運支路と東海道(陸路)の結節点となったと考えます。
●東海道(陸路)沿いの遺跡
d 市川市下総国分寺跡寺域確認
e 我孫子市布佐余間戸
f 佐倉市高岡大山、寺崎遺跡群向原
c 成田市山口、加良部、囲護台
d-eルートは東海道の新しいルート、d-f-cは東海道の古いルートです。
●太平洋から直接陸奥国へ兵員・物資を運ぶルート沿いの遺跡
g 八日市場市柳台
h 芝山町庄作
i 東金市久我台、作畑、山田水呑
j 大網白里町南麦台、砂田中台、千葉市中鹿子第2
何れも、その場所が農業等の生産拠点であり、その産物を軍事物資として太平洋経由で直接陸奥国へ運んだものと考えます。
2 八千代市白幡前遺跡と佐倉市高岡大山遺跡の墨書土器出土が特に多い理由
八千代市白幡前遺跡は墨書土器出土件数826、佐倉市高岡大山遺跡は752で他の遺跡と比べて飛びぬけて多数となっています。恐らく全国的に見てもトップクラスだと思います。
八千代市白幡前遺跡と佐倉市高岡大山遺跡の墨書土器出土が特に多い理由として、その場所が100%人々の定住地であったのではなく、陸奥国へ向かう軍事部隊の一時逗留基地であった側面が強いからではないかと考えます。
「一般農業集落」でイメージする、代々家族がそこに住むというイメージではなく、数十人、数百人の部隊や集団が律令国家の人集め計画に従って、絶えずこの場所で短期長期間の逗留を行ったのではないかと考えます。
命を賭けて戦いに向かう軍事集団が絶えず逗留するので、「一般農業集落」と比べれば延べ人口が多いことになり、また文字を使って兵員を教育することも行なわれ、さらに「生きたい」という心からほとばしる気持ちも強い集団であり、墨書土器による祈願も多かったと考えます。
八千代市白幡前遺跡は東海道水運支路を代表して、佐倉市高岡大山遺跡は東海道(陸路)を代表して、このような場所であったと推定します。
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