小字地名データベース作成活用プロジェクト 10
1 奈良熊、実籾田は勅旨田開発に関わる地名である可能性大
2015.03.30記事「奈良の都への供米のための水田開発」で千葉市花見川区幕張の小字地名「奈良熊」について検討しています。
奈良熊(ならくま)とは奈良供米(ならくまい)の転であると推察しました。
「奈良熊=奈良供米は「奈良の都に納める米」という意味で、この場所が中央直轄の開発地であったことを地名が伝えています。」と書きました。
また、奈良熊と実籾田(みもみだ=御籾田)がセットで存在していることにも注目しました。(実籾は習志野市域に地名として広がり、京成本線の駅名にもなっています。)
さて、「千葉県の歴史 通史編 古代2」をペラペラみていると、「古代房総の荘園」という章があり、「下総国の勅旨田」の記述がありました。
奈良熊はこの「下総国の勅旨田」の一つであったのではないかと考えましたので、メモしておきます。
以下「千葉県の歴史 通史編 古代2」を抜書きしてみます。
「下総国の勅旨田
下総国で、国内にある未開の土地700町が勅旨田として設定された831(天長8)年の前後、諸国でもあいついで勅旨田が設定されている。[表65]は、「類聚国史」にみられる諸国の勅旨田の一覧である。
表65 諸国勅旨田の実施状況
これらの事例からは、畿内をはじめ全国に設置されたこと、それらは広大な面積の「空閑地」とよばれる未開地や荒れはてた田地を対象として開墾されたこと、開発の費用には諸国の正税(しょうぜい)があてられたことなどが知られる。
…
近江国と美濃国の二つの事例からは、一般の勅旨田の開発と経営は、勅旨を受けるかたちで、国司を責任者として諸国の正税を財源としておこなわれ、太政官→国司という行政ルートでおこなわれていたこと、また開墾予定地とされた土地は、未開地や荒れはてた土地などを含んでいたことが判明する。しかもそれは、9世紀に新たに行われるようになった方式ではなく、8世紀の中ごろにはすでにみられたのである。下総国の場合には、残された史料は、831(天長8)年に勅旨田700町が設定されたことを記す「類聚国史」の記事だけである。700町のおよぶ広大な田地の開発が、どのような方式でおこなわれたのかは明らかでないが、おそらく近江国や美濃国の事例と同じように、下総国司により、同国の正税を用いて開発が進められたのであろう。このような勅旨田の開発と並行して、9世紀前半から中ごろにかけて、房総地域をはじめ東国の開発型集落が形成されてくるのであろう(→五節)。
勅旨田の収穫物は、9世紀には、地子米(じしまい)として国司によって、平安初期に設置された「穀倉院」という中央の役所に運ばれたことがわかる。そこにおさめられた米は、天皇の食用や儀式の費用にあてられていた。しかしそのことは、勅旨田が天皇の私的な経済基盤としておかれた田地であることを意味するのではない。勅旨田は、その設置や管理・運営面からみるならば、国家財政の財源を確保するために、太政官→国司のルート、つまり国家の行政上に位置づけられた田地であったといえよう。」「千葉県の歴史 通史編 古代2」(千葉県発行)から引用
小字地名奈良熊や実籾田(みもみだ=御籾田)は、それが表現する意味が直接的に勅旨田を指すものと考えられます。
小字地名奈良熊や実籾田はその場所が勅旨田であったことを示す「文字史料」である可能性が大です。
「下総国の場合には、残された史料は、831(天長8)年に勅旨田700町が設定されたことを記す「類聚国史」の記事だけ」ではなかったということになりそうです。
今後さらに検討を深めたいと思います。
参考 花見川河口付近(浜田川筋)の奈良・平安時代遺跡分布
参考 奈良熊、実籾田などの小字分布
奈良熊、実籾田、奈良熊外野の位置は「絵にみる図でよむ千葉市図誌 下巻」(千葉市発行)による。
2 奈良熊・実籾田が勅旨田開発を意味するとすれば
もし奈良熊・実籾田が勅旨田開発を意味するとすれば、その地名が表す場所付近の開発地を想定すると、その面積はおおよそ100~150町(1町=1haで簡易換算)程度になりそうです。(谷津谷底だけでなく、周辺台地を含めて開発地をGIS上で想定・計測)
奈良熊・実籾田の勅旨田開発地がもし100町~150町程度であるとすれば、下総国の勅旨田実施が700町ですから、同じような勅旨田開発地が下総国にあと4~6箇所程存在したことになります。
その4~6箇所程の勅旨田開発地も、遺跡分布情報と地名情報を重ね合せれば、その場所を推察できるかもしれません。
千葉県小字地名データベース作成プロジェクトのうち、下総国分作業を急ぎたいと思います。
遺跡分布情報は(アドレスマッチングによる簡易情報ですが)すでに入手しています。
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