私の散歩論

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2015年6月8日月曜日

八千代市井戸向遺跡から出土した銙帯(かたい)

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1 井戸向遺跡・白幡前遺跡出土銙帯

八千代市井戸向遺跡における銙帯出土ポイントを地図にプロットしたみました。

なお、井戸向遺跡だけの特性を検討してもあまり意味がないと考えますので、今後白幡前遺跡の検討結果に井戸向遺跡の検討を加えるような形で検討をすすめ、プレゼンテーションも井戸向遺跡と白幡前遺跡を合わせて行います。

井戸向遺跡・白幡前遺跡出土銙帯
出典資料
●「八千代市井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅳ- 本文編」(1987、住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)
●「八千代市権現後遺跡・北海道遺跡・井戸向遺跡 -萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅶ-」(1994、住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)
●「八千代市白幡前遺跡-萱田地区埋蔵文化財調査報告書Ⅴ-本文編」(1991、住宅都市整備公団首都圏都市開発本部・財団法人千葉県文化財センター)

●D147地点は1987年報告書以降に新たに行われた発掘調査結果(1994年報告書に収録)の情報です。
●引用スケッチのスケールは統一されていません。

2 銙帯出土数
井戸向遺跡から出土した銙帯は4つです。一方白幡前遺跡から出土した銙帯は9つです。

井戸向遺跡の出土数は白幡前遺跡の半分以下です。

この結果から、白幡前遺跡と井戸向遺跡の古代社会における重要性の軽重を判断できると考えます。

銙帯出土数は活動官人の人数に比例し、それは官人が関わったプロジェクトの数や重要性に比例し、ひいてはその場所が果たした社会機能の強弱(拠点性)に比例したと考えます。

このような考えから、白幡前遺跡の集落がいわば本社筋、井戸向遺跡の集落が支社筋(現場筋)のような社会関係が存在していたのではないかと想像します。

白幡前遺跡には多量ハマグリ出土が多くの場所に見られますが、井戸向遺跡にはハマグリ出土は全くありません。

東京湾から分水嶺を越えて活貝を運び消費するという贅沢が白幡前遺跡には見られ、井戸向遺跡に見られないということも、本社筋と支社筋(現場筋)のような社会関係存在を暗示します。

3 ゾーン別銙帯出土数
銙帯はⅠ、Ⅲゾーンから各1点、Ⅳゾーンから2点出土しています。

ⅠゾーンとⅢゾーンは「竪/掘」値(※)の検討から業務上の地域であると予想してます。ですからそのゾーンから銙帯が出土する、つまり官人が活動していたことの証拠が出土したのですから、予想と合致します。

※ 「竪/掘」値は2015.06.05記事「八千代市井戸向遺跡の「竪/掘」値(タテホリチ)」参照

一方、Ⅳゾーンは「竪/掘」値からは一般農業集落的環境を想定しました。そのゾーンから銙帯が2つ出土しています。
白幡前遺跡では一般農業的集落であると考えた2Bゾーンから銙帯は出土していません。
この現象を次のように解釈して、新たな仮説とします。

●「竪/掘」値が大きい(一般農業集落的環境にある)Ⅳゾーンから銙帯が2つも出土する理由
・軍事兵站・輸送基地の白幡前遺跡を支えるための、農業生産のための開発中(開拓中)の土地が井戸向遺跡Ⅳゾーンであったと考えます。この開発中の土地に寺谷津の水田開発も含まれていたと考えます。
・台地面の開発行為としては、例えば樹林を焼き払い、根を抜根して、畑を作り、アワなどの穀類畑や麻畑をつくったのだと想像します。
・あるいは鍛冶のための大量の木炭づくりが行われていたことも考えられます。
・このような開拓事業が国策として官人主導で計画的に行われたと考えます。
・開拓事業の現場にも官人が詰めて、労働する住民や奴婢を指導監督していたのだと思います。
・開拓事業が計画どおりに順調に進まなければ懲罰の対象になるのですから官人も必死だったのだと思います。
・Ⅳゾーンからの銙帯出土はこのような現場の状況によると考えます。

なお、白幡前遺跡から墨書土器の文字として「赤山」(セキヤマ)、「乙山」(オツヤマ、メリヤマ)が出土しています。

「赤山」、「乙山」とは、産物の少ない開発地の通称であり、その開発地から産物が多くなるように祈願したのではないかと考えました。

その「赤山」、「乙山」とは具体的には井戸向遺跡Ⅳゾーンなどを指す可能性があります。

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