私の散歩論

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2015年9月22日火曜日

鳴神山遺跡の墨書土器 1

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.210 鳴神山遺跡の墨書土器 1

鳴神山遺跡の検討を中断して寄り道で墨書土器学習をしていましたが、墨書土器に関する栄養をかなり吸収できましたので、再び鳴神山遺跡検討に戻り、早速墨書土器の検討に入ります。

次の表は鳴神山遺跡と白幡前遺跡遺跡の墨書・刻書土器文字の出現数上位50位までを示した表です。文字と言ってもデータベースの釈文欄記載について機械的に出現数をカウントし、それを並べたものです。

鳴神山遺跡及び白幡前遺跡 墨書・刻書土器文字 出現数上位50

参考 鳴神山遺跡と白幡前遺跡の位置

鳴神山遺跡と白幡前遺跡で50位までで共通する文字は釈文不能(□、□□)を除くと×、廾、♯、井の4文字だけです。

×と♯は魔除け記号であり、井も♯と同じ魔除け記号の可能性が濃厚です。

そのように考えると、記号ではなく文字(漢字)として残るのは廾(※)だけです。

※ データベースでは十の会意文字(十を2つ横につなげた文字)が活字にすると廿になり、墨書・刻書の画像と異なるので、元来全く別の漢字である廾(きょう)で表現している場合があります。(廿で表現している場合もあります。)

鳴神山には大、依、大加、冨、千万、大大、中万などの出現数が多く、白幡前遺跡には生、夫※(大一の組文字)、廓、継、○(則天文字)、入、文、立、圓(異体字)、(特定記号)、饒などが多いのですが、出現数50位までの文字で漢字はたった1文字しか共通するものがないということに驚きます。

白幡前遺跡では、多出文字はそれを共有する集団が自らの使命を簡潔に表現していると考えました。

多出文字は、共伴して出土する文字や遺物などから、単純で無味乾燥な共有符牒ではなく、「生」は白兵戦で相手を殺して生き抜く決意を、「夫※(大一の組文字)」は陰陽師の大一占を、「廓」は軍事・兵站基地(=白幡前遺跡)の防備を、「廾(活字で表現すると廿)」はツヅラと読み被服廠の管理警備を…などです。

多出文字はそれを共有する集団の使命(平たく言えば生業)に強く関連していると考えました。

鳴神山遺跡の多出文字を白幡前遺跡での検討を踏まえてみると、次のような特徴が浮かび上がります。

1 多出文字の種類が白幡前遺跡より少ない。
多出文字の種類(例えば10以上出土文字)をカウントすると、鳴神山遺跡では白幡前遺跡より少なくなっています。

これは、鳴神山遺跡に存在した、使命を異にする集団(プロジェクトチーム)の数が少なかったということだと思います。

墨書・刻書土器数は鳴神山遺跡の方が多いのですから、1つの集団が大集団であった可能性があります。

2 文字が意味する内容から経済的豊かさや農業繁栄の祈願がメインであるという印象を受ける。
大、大加、冨、千万、大大、中万などは経済的豊かさを祈願する言葉であるという印象を受けます。

また、依は同じく出現する衣と通じて被服作成(麻栽培や製糸・織物・縫製)に関連するという印象を受けます。さらに関連して、廾は白幡前遺跡と同じく廿(つづら)と読み被服廠管理に関する祈願語であるという印象を受けます。

久弥良は同時に出現する久、久弥、弥良などとのグループで考えられますが、ヤラ(湿地)に関わる職業(水鳥猟?)関連の祈願語であるという印象を受けます。

犬は狩猟に関連するような印象を受けます。

山本は山(農林業地)の元締めという意味であり、農業活動集団の祈願語であるという印象を受けます。

卅はミソと読み、味噌作り集団の祈願語かもしれません。

鳴神山遺跡の出土遺物情報をまだ閲覧できていないので、十分な検討ができませんが、出土文字だけからの印象では、鳴神山遺跡は大きな農業基地であったということになります。

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