私の散歩論

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2015年9月4日金曜日

鳴神山遺跡検討の興味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.196 鳴神山遺跡検討の興味

萱田遺跡群の検討を第1ラウンド、第2ラウンドと行い、白幡前遺跡が萱田遺跡群の中心であり、萱田遺跡群が白幡前遺跡を軸に組織された軍事・兵站基地であるという見立ての蓋然性を高めてきました。

なんの取り柄もない印旛浦の袋小路みたいな萱田遺跡群の場所に一般農業集落が発展するとは考えられません。

花見川-平戸川筋が東海道水運支路として開発され、平安京と陸奥国を結ぶ水運幹線路の中枢地点であったからこそ、萱田遺跡群が生まれたと考えます。

東海道水運支路における萱田遺跡群(軍事・兵站基地)の平安京方面の隣拠点は直道遺跡・居寒台遺跡であり、この場所は浮島駅家や花見川河口津と一体の場所にあります。東京湾水運路の拠点となっています。

さて、東海道水運支路における萱田遺跡群(軍事・兵站基地)の陸奥国方面の隣拠点を探すと、それは鳴神山遺跡(及び近隣遺跡)になります。

鳴神山遺跡及び近隣遺跡の位置

鳴神山遺跡から出土した墨書土器は白幡前遺跡より多く、千葉県遺跡では最多となっています。また銙帯も出土していて、官人をリーダーとする白幡前遺跡に匹敵するあるいはそれ以上の集団組織活動が行われていたと考えられます。

しかし、白幡前遺跡と鳴神山遺跡との距離は7㎞程ですから、鳴神山遺跡を水運路途中に設定される補給や休息のための津として考えることは困難です。

さらに、鳴神山遺跡は印旛浦の支谷津奥に位置していて、印旛浦水運路の津としては、その位置が不自然です。

鳴神山遺跡及び近隣遺跡の位置 2
基図 地形

参考 鳴神山遺跡及び近隣遺跡の位置 2
基図 標準地図

このブログでは鳴神山遺跡及び近隣遺跡が次のような交通路分岐点機能を有する拠点であると仮説して(そうした興味を背景にして)検討を加えることとします。

鳴神山遺跡及び近隣遺跡に関する興味

鳴神山遺跡及び近隣遺跡が、東海道水運支路(つまり印旛浦)と於賦駅を結ぶ山越え(=船越)の交通路の分岐点拠点であったと仮説して(そのような興味を持って)、鳴神山遺跡及び近隣遺跡について検討します。

鳴神山遺跡及び近隣遺跡について詳しく検討しなければわからないことですが、分岐路拠点が大きいということは分岐する交通路が盛んであった、あるいは重要であったことを意味すると考えます。

水運路から離れて、わざわざこの場所で山越え(=船越)する意味はなにか、その疑問(興味)が深まります。

その疑問(興味)を検討すると東海道陸路と東海道水運路の使い分けの関係が見えてくると予想します。

なお、鳴神山遺跡は萱田遺跡群のように完結した発掘調査報告書が存在していないこと、及び刊行されている発掘調査報告も図書館外に帯出できないこと(自分の机の上で閲覧できないこと)など情報入手の点で困難を伴います。

そのため、このブログでは得られた情報はそれがを断片的なものでも記事にして蓄積し、ある程度まとまった段階でとりまとめ検討をしたいと思います。

萱田遺跡群の検討では、思考(調査検討)の継続(連続)と記事の継続(連続)がある程度対応したのですが、鳴神山遺跡では断片的な情報を断続的に記事にすることが多くなると思います。

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