鳴神山遺跡の多出文字、長文文字に次いで、これら以外の興味ある文字について検討します。
1 年号
「弘仁九年九月廿」という年号が墨書土器として出ています。
弘仁九年九月廿のスケッチ
「千葉市北部地区新市街地造成整備事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ-印西市鳴神山遺跡・白井谷奥遺跡-」(平成11年3月、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財センター)[以下発掘調査報告書とします]から引用
弘仁(こうにん)九年は西暦818年です。WEBから情報を拾うと、弘仁7年に空海が高野山金剛峰寺を開く、弘仁9年に富寿神宝鋳造、弘仁13年に景戒が「日本現報善悪霊異記」を編集などの項目が拾えます。その頃の年代の特定年月日が墨書土器として出土したということは鳴神山遺跡を考える上で重要な情報であると考えます。
2 「弓」の墨書
鳴神山遺跡出土ヘラ書き土器の「弓」字形と南河原坂窯跡群出土ヘラ書き土器の「弓」字形が同じであることから、鳴神山遺跡の文字「弓」共有集団が土器製作を南河原坂窯跡群に発注したことが証明されたという発掘調査報告書の検討結果を別記事で既に紹介しています。
2015.09.15記事「鳴神山遺跡の特注品であることを示すヘラ書き土器(追補情報)」参照
「弓」字形史料
この「弓」の意味を考えてみました。
参考までに千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)で「弓」を検索すると鳴神山遺跡、南河原坂窯跡群を含む5遺跡から「弓」が出土していて、諏訪山遺跡(旭市)と桜井平遺跡(旭市)からは「弓取」という熟語で出土しています。
「弓取」を辞書で調べると次のような意味になります。
ゆみ‐とり【弓取】
〖名〗
① 弓を手に持つこと。弓を用いること。また、その人。
古今著聞集(1254)一二「或所に強盗入たりけるに、弓とりに法師をたてたりけるが」
② 弓術にすぐれていること。また、その人。
吾妻鏡‐文治元年(1185)八月二四日「行平。日本無双弓取也」
半井本保元(1220頃か)上「生付たる弓取なれば、矢つかゆてのかひな四寸まさりて長し」
③ 弓矢を持つことを勤めとすること。また、その人。武士。
播磨風土記(715頃)印南「私部(きさきべ)の弓取等が遠祖(とほつおや)、他田熊千(をさだのくまち)」
金刀比羅本平治(1220頃か)中「弓取(ユミトリ)のならひほどあはれにやさしきことはなし」
④~⑥略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
播磨風土記(715頃)印南の例文が紹介されている「③ 弓矢を持つことを勤めとすること。また、その人。武士。」を墨書土器文字「弓取」の意味として捉えることがふさわしいような印象を持ちます。
この印象から連想して、鳴神山遺跡出土「弓」も同じ意味、つまり武器である弓矢を持つことを務めとする(生業職種とする)兵士、つまり戦闘員を意味すると想像することもできます。
墨書土器として、線刻「大加」に墨書「弓」が書かれたものが2点出土していることから、「大加」を共有する集団の中に「弓」(つまり戦闘員)を職種とした小集団が存在していたような印象をもちます。
空想に空想を重ねれば、「弓」が意味する戦闘員は蝦夷戦争に出かけるための兵士ではなく、集落の独自性や安全を維持するための武力だったと思います 。
3 播寺、波田寺
播寺、波田寺、佛という文字が出土していて、仏教関連の言葉であると考えます。
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書 XIV -印西市鳴神山遺跡Ⅲ・白井谷奥遺跡-」(平成12年3月、都市基盤整備公団千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)では次のような記述があります。
「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」
私はこの記述に強く興味を持ちました。
「はたてら」の「はた」がこの近くにある小字名「白幡」の「はた」と通じる可能性があるからです。
「白幡」地名は特別興味を持っているので、今後「はたてら」と「白幡」の関係について検討することにします。
なお、ケチをつけることになってしまい、つまらない話になってしまいますが、「波田寺」も「播寺」も音声表記では「はたてら」であり、同一のものを表記していると考えられる。」は間違いなのではないかと考えます。
いくら調べても「播」をハタと読む辞書等の情報を見つけることができません。「播」は「ハ」か「バン」になると考えます。
報告書の記述は「播」を「幡」あるいは「旛」と勘違いしたものと考えます。
播寺のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
波田寺のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
4 酒有、酒万
酒という文字が「米を発酵させて製するアルコール分含有の飲料」つまり日本酒を意味すると考えますから、酒万は「万」を共有する集団配下の酒つくり集団を意味するかもしれません。
墨書土器文字卅はミソと読み味噌作り集団を意味していると考えますから、鳴神山遺跡で酒、味噌などの発酵食品がつくられていたことが考えられます。
酒万のスケッチ
千葉県出土墨書・刻書土器データベース(明治大学日本古代学研究所)から引用
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