花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.221 墨書土器の2大分類と鳴神山遺跡文字「丈」の分布
鳴神山遺跡出土墨書土器の文字別分布検討を続けています。
この記事では「丈」の分布検討を行います。
「丈」が出てくる墨書土器は1文字あるいは熟語だけでなく、長文墨書土器が3つも含まれています。
そこで、分布そのものの検討の前に、長文墨書土器と1文字・熟語墨書土器の違いについて、私がこれまでに検討して得てきた事柄をまず紹介して、その違いを踏まえて「丈」分布を検討します。
1 長文墨書土器と1文字・熟語墨書土器の違い
墨書土器分類の想像的予備検討
同じ墨書土器で、同じように文字が書かれていても、長文土器・人面土器と1文字・熟語土器ではその意義等が全く異なると考えます。
集落支配者が集落全体等に文化的威圧を与えるために書いたものと、一般住民が支配者の指導の下に墨書を書き、支配者が望む労働遂行の祈願のためにつかわれたものを一緒に考えるわけにはいかないという趣旨のメモです。
2 鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布
鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布は次の通りです。
鳴神山遺跡の文字「丈」の出土分布
3点の「丈部」を含む出土とⅢ208竪穴住居の「丈」出土を分けて検討します。
2-1 3点の「丈部」を含む長文土器
「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」、「丈尼丈部山城方代奉/丈尼」、「同□[ ]丈部ヵ刀自女召代進上」の3点の長文土器は何れも文字「丈部」を含んでいます。
「丈部」(ハセツカベ)は「781(天応元)年1月、下総国印播郡の大領の丈部直牛養は、軍粮を差し出した功績により外従五位下を授けられている。」(千葉県の歴史通史編古代2)の丈部一族に結び付けて考えることができる、鳴神山遺跡の有力支配層一族であると考えます。
その支配層の書いた墨書土器分布は、支配層が実際に居住した場所を表現していると考えます。
特に、「国玉神上奉 丈部鳥 万呂」と「丈尼丈部山城方代奉/丈尼」が隣接した遺構から出土しています。
この2つの「丈部」を含む長文土器出土域付近が鳴神山遺跡の支配層居住地であり、政治権力上の中心地で在ったと考えます。
また、長文土器が3点の出土域をゾーンとして捉えると、それは「大」「大加」集団と「依」集団を割って分布し、その双方を分離して支配しているように感じることができます。
参考 文字「大」出土分布図
参考 文字「大加」出土分布図
参考 文字「依」出土分布図
2-2 Ⅲ208竪穴住居から出土する多数の文字「丈」
「丈部」を含む長文土器の分布から離れて、Ⅲ208竪穴住居から多数の「丈」が出土します。
このブログでは「丈」と「丈ヵ」だけを集計していますが、集計していない「他の文字の可能性もあるもの」を含めると14史料が出土します。
鳴神山遺跡 釈文「丈」関連データ
この1文字「丈」墨書土器は、「丈部」を含む長文土器出土域(つまり支配層居住地)から離れていることと、1文字で多数出土することから、同じ「丈」でも同列に扱えないと考えます。
分布情報だけから結論を得ることはできませんが、次のような可能性を考えます。
1 「丈部」という名称を使えた一族でも、その末端は非支配層に零落していて、他の一般住民と同じように「丈」を祈願語として使い、労働に励んだ。
2 「丈」は「丈部」(ハセツカベ)という氏族名ではなく、ツエ「杖・筇・丈」と読み補佐するものという意味であり、支配層とは関係がない職種職能集団であった。
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参考
つえ つゑ【杖・筇・丈】
〖名〗
① 竹や木などで作り、手に持ち地面について、歩行のたすけとする棒。じょう。
●古事記(712)中「爾に其の御杖(つゑ)を、新羅の国主の門に衝き立てて」
●浮世草子・近代艷隠者(1686)二「笻(ツエ)に小話(ささやき)、笠にわらひ」
② たよりとするもの。補佐するもの。
●書紀(720)垂仁二五年三月(熱田本訓)「天皇倭姫命を以て御杖(みツヘ)と為て」
●二人女房(1891‐92)〈尾崎紅葉〉下「老の杖(ツヱ)となるのは周三ぐらゐの事は隠居も心得てゐる」
以下略
『精選版 日本国語大辞典』 小学館
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現時点では2の可能性が高いと考えています。
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