鳴神山遺跡の最多墨書土器文字は「大」です。次いで「大加」も多出しています。
2015.10.04記事「鳴神山遺跡の墨書土器分布検討 その1」参照
「大」は大国玉神つまり大国主神を表現していて、大国玉神(大国主神)に祈願している様子を想定しています。
「大加」は「この坏に酒を注ぎ捧げますから、大国主神が私の祈願を実現してください」という意味になると想定しました。加は加護かもしれません。
2015.10.15記事「鳴神山遺跡の墨書文字「大」は大国主神と推定する」
ですから「大」はオオ(オホ)と読むと考えます。ダイではありません。
その出土分布図は何回も掲載していますが、再掲すると次のようになります。
「大」分布
「大加」分布
大、大加ともに鳴神山遺跡を二分するような直線「道路遺構」の北側に主に分布します。
この「道路遺構」は牧施設(馬の自由な移動を制限する堀)ではないかと考え、現在検討中です。
2015.12.18記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問1」参照
直線「道路遺構」より北側が広大な馬牧になっていて、その牧での現場労働集団の祈願語が「大」「大加」であったと考えます。
そして、まったく別の視点(小字検討)から収集した小字分布図をたまたまみると、なんと「大」「大加」出土地域付近に小字「大野」がみえます。
小字「大野」の分布
墨書土器文字「大」、「大加」と小字「大野」を重ねると、私から見て、ぴたりと一致します。
墨書土器文字「大」と小字「大野」
墨書土器文字「大加」と小字「大野」
奈良時代に大国玉神(大国主神)に祈願を寄せて集団労働に励んだ人々の「オオ」という言葉(発音、文字)の記憶が地名として現代までつたわったのです。
「オオ」と祈願して牧労働に励んだ人々がこの「野」にいたという記憶が地名として残り、その意味は早々に忘れられたかもしれませんが、現代にまで伝わったということは感動的です。
大野の付近には「孫開」(馬子開)、「馬坂」、「馬橋」などの直接牧を示す地名が隣接します。
猿塚も馬小屋で飼われていた猿にちなんだ牧地名です。
内野も中近世になりますが、官が牧界を確定するときの内野(民所有地)で牧関連地名です。
なお、現代の字界図では「大野」は半分消滅しています。
地域開発というメリットの裏で文化財としての地名が失われていく様子は仕方がないとはいえ、残念です。
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