私の散歩論

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2016年1月19日火曜日

鳴神山遺跡 紡錘車出土と鉄鏃出土の相関関係

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.270 鳴神山遺跡 紡錘車出土と鉄鏃出土の相関関係

これまでの検討で、紡錘車出土はその遺構あるいは周辺に資産が存在していたことを暗示するものとして考えました。

紡錘車は直接的に製品としての糸やそれを編んだ織物、それを縫製した衣服という資産を暗示するとともに、その背後に集落経済活動全体の広義の資産を暗示すると捉えることができると考えます。

一方、鉄鏃は対人殺傷兵器以外の無いものでもなく、盗賊の略奪に備える武器であると考ええることができます。したがって、鉄鏃出土遺構とはその遺構あるいは近辺に集落資産の存在があることになります。

このように考えてきましたから、紡錘車と鉄鏃の出土は大いに相関するはずです。

その相関を分布図で確かめてみました。

これまで作成した竪穴住居からの紡錘車出土イメージ図と鉄鏃出土イメージ図を年代毎に並べて対照できるようにしました。

紡錘車出土イメージ図は資産分布図、鉄鏃出土イメージ図は防衛拠点分布図と読み替えました。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第1四半期

資産分布と防衛拠点分布が近接してほぼ一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第2四半期

資産分布と防衛拠点分布が近接してほぼ一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第3四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 8世紀第4四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致します。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第1四半期

資産分布と防衛拠点分布が概略一致する場所があるのですが、直線道路東端南の資産分布域の防衛が手薄になっているように見えます。その代わり、直線道路中央部の北側に大きな防衛拠点が生まれています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第2四半期

9世紀第1四半期に既に見られた構造がより明瞭になり、直線道路東端南側の資産集中域をその場所で守るだけでなく、直線道路中央部北側に大きな防衛拠点(砦)を設けて集落全体を守るという集落防衛構造が確立します。

この集落防衛構造をポンチ絵にすると次のようになります。

集落ピーク時の資産と防衛の様子

このような集落防衛構造が9世紀第1四半期には既に生まれていたということは、蝦夷戦争終了直後から権力の空白、軍隊の不在状態が生じ、治安が悪化し、俘囚の反乱などと関連して(それが主因?)生業を営む集落に対する略奪行為が常態化したのだと想像します。

そして、集落活動がピークなり、竪穴住居軒数が最大となる9世紀第2四半期には略奪に対する備えが集落の重要な課題となっていたことがわかります。

映画「7人の侍」のような社会状況が存在して、映画はハッピーエンドでしたが、9世紀下総では集落消滅が結末となったのだと考えます。

なお、たくましく空想すれば、集落の直線道路北側は直線道路が使われていた時代から牧(大結馬牧の出先牧)であり、動員解除・戦後時代に本格的に自立した牧になったのだと思います。その牧集団が砦をつくり、盗賊集団から自分たちの馬の略奪を防ぎ、結果的にその砦が直線道路南側の農業を生業とする集落本体の防備の役割を担ったのだと思います。

牧集団と農業集団の間には上下関係(牧-下、農-上)、あるいは契約関係(牧-集落防衛業務受注、農-集落防衛業務発注)があったように感じてなりません。その証拠はおそらく見つかると予感しています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第3四半期

資産が存在する場所ごとに防衛するとともに、砦を設けて集落全体を守るという構造が継続しています。

資産分布図と防衛拠点分布図 9世紀第4四半期

防衛拠点は縮小し、資産が存在する場所ごとに防衛する状況に戻っています。集落の終末期です。


以上の検討から、紡錘車出土と鉄鏃出土は大いに相関があり、紡錘車出土を資産存在に見立て、鉄鏃出土を資産防衛活動の存在に見立てるという考えの妥当性が高いことを確かめることができました。

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