墨書土器「依」は鳴神山遺跡出土墨書土器文字の中で(漢字認識できるものの中では)2番目に多い文字です。
「依」(少数「衣」も出ますので含めます)は衣服に関わる産業活動に関連する祈願文字であると考えています。
2015.10.18記事「墨書文字「依」の意味深考」参照
そこで、文字「依」と紡錘車出土との関係を探ってみました。
難渋した検討となりました。
文字「依」の年代別出土イメージを示します。
鳴神山遺跡竪穴住居 文字「依」「衣」墨書土器出土イメージ
「衣」は8世紀第1四半期から出土していて、途切れる年代もありますが、9世紀第1四半期まで少数出土が継続します。
ところが、9世紀第2四半期に急増し(6→44)、第3四半期も同程度の水準を保ち、9世紀第4四半期には激減します。
土器に「依」と書いて生産活動を祈願した集団が細々と100年以上活動していたのですが、9世紀第2四半期と第3四半期の50年間は墨書土器という自己啓発ツールを積極活用して労働層の意識向上を積極的に図った様子を見てとることができます。
(もともと、墨書土器という自己啓発ツールを官人が蝦夷戦争兵站基地に持ち込み、労働層のやる気を刺激したと考えてきているのですが、鳴神山遺跡では蝦夷戦争後に墨書土器の大流行があるようです。したがって、これまでの自分の見立てを大幅に変更しなければならないようです。)
次に紡錘車出土数イメージを示します。
鳴神山遺跡 紡錘車出土イメージ
紡錘車出土数イメージは8世紀第3四半期に急増し、さらに9世紀第2四半期に急増し、その後減少するパターンとなります。
このグラフパターンが紡錘量の変化パターンを表し、ひいては織物生産量の変化量に対応している指標として考えることができると思います。
このグラフと前出の「依」「衣」墨書土器出土イメージがあまりにも違いますが、紡錘車出土数は客観的な生産活動に関連した指標であり、「依」「衣」墨書土器出土数は労働生産性向上のために、墨書土器という自己啓発ツールをどれだけ有効活用したかという社会指標ですから、違ってきます。
次に紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージを年代順に対照させてみました。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期
蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期
蝦夷戦争準備時代
直線道路南側に紡錘車、文字「依」ともに出土します。この頃の開発域がこの付近だったようです。出土遺構は近いですが、一致しません。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期
動員解除・戦後時代
文字「依」の分布がさらに広がるとともに、1か所で集中出土します。
紡錘車の分布と文字「依」の分布がお互いを避けるように見えることは不思議です。
紡錘車分布と文字「依」分布が重複する部分が存在するという見立てでこの図を作成したので、検討をお互いに重複しない相関として検討し直す必要が生まれました。
動員解除・戦後時代
紡錘車も文字「依」も急減しているよう状況です。
考察(2016.01.27訂正追記)
当初、紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージの関係を次のように考えましたが、この関係を取り下げます。
「依」集団が衣服に関係する生業集団であるとの考えは変わりませんが、麻栽培集団であるかどうか再検討します。
紡錘車を使った活動に対応する墨書文字集団が見つかりそうなので、上記検討を取り下げます。
紡錘車出土イメージと文字「依」出土イメージを対照させて、そこから引き出せる情報は今のところ次のようになります。
その文字の意味から衣服生産に関連する集団であると考える文字「依」集団の分布と製糸活動を示す紡錘車出土分布が、お互いをすみ分けるように重ならないという印象を受ける。
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無理を承知で強引に情報を引き出し、記事にしてみて、それを読み返すと、これまで見えていなかった情報が見えるようになるという体験をしているようです。(頭の中で仮説を夢想しているだけでは、いつまでもその段階にとどまってしまいます。)
このブログは検討結果(成果)を公表する場ではなく、私の思考プロセスを公表している場ですので、このような検討における試行錯誤をお許しください。
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