花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.291 鳴神山遺跡のメイン生業は? その2
鳴神山遺跡のメイン生業は牧業務であると考えますが、その直接証拠が少ないことについて検討します。
2016.02.15記事「鳴神山遺跡のメイン生業は?」で紹介したとおり、馬を犠牲・生贄として祭祀を行ったと考えられる遺構が出土していますから、この遺跡が牧と深いかかわりがあることは確認できました。
しかし、牧に関連する遺構や遺物がザクザク出ていないことの理由を考えます。
次の2つの理由が考えられます。
1番目の理由は牧に関連する遺構・遺物が出土しているにもかかわらず、発掘調査報告書でそのような認識がされていない(調査担当者が気が付いていない)可能性があります。
2番目の理由として、牧の現場と集落が異なるために、集落から牧関連遺構・遺物が出土しないということが考えられます。
次にそれぞれ考察してみます。
1 牧関連遺構・出土物が見落とされている可能性
専門家でもなく、出土物現物を観察しているでもない素人の私の単なる空想的検討です。
次の図はたまたま読んだ論文に掲載されていた出土した古代馬具例です。
古代馬具出土例
このような情報を参考に、鳴神山遺跡の発掘調査報告書の不明鉄製品を検討してみると、次のような馬具かもしれない製品が出土しています。
不明鉄製品
牧業務の痕跡が不明鉄製品の中に混じっているかもしれません。
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参考 牧業務とは直接関係ありませんが、発掘調査報告書の記述から新たな情報を引き出すことが可能である他の事例を紹介します。
不明鉄製品の中に枢鉤と思われる製品を複数見つけました。
そのうちの一つである枢鉤の差し込み口金具と考えられる製品を示します。(曲がった棒状の枢鉤そのものも複数不明鉄製品にふくまれているように観察されます。図版略。)
不明鉄製品
同じような製品が白幡前遺跡からも複数出土しています。
参考 白幡前遺跡出土鉄製品
2015.08.03記事「萱田遺跡群の鉄製品出土物 その5 枢鉤(くるるかぎ)」参照
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2 牧の現場と遺跡として発掘した集落が離れている可能性
牧関連遺構は次の6つの施設から構成されるという研究があります。
1 牧場地区(牧本体。草原であり遺構は少ない。土塁・堀・柵列などが牧認定の根拠となる。)
2 繋飼地区(厩舎。駅路・居館・官衙・宮都・寺社などに付設される。)
3 管理地区(官衙的な事務空間(検印・礎石建物・文房具、馬具工房)、検印のための土塁・柵列など)
4 居住地区(牛馬飼育集団の居住集落。牛馬骨や馬具の出土、皮革加工などの痕跡を伴う。)
5 牧田地区(牛馬飼育集団が自営するための田畑。)
6 墳墓・祭祀地区(埋葬牛馬、牛馬殉葬、殺牛馬儀礼。)
(桃崎祐輔(2012):牧の考古学-古墳時代牧と牛馬飼育集団の集落・墓-;日韓集落の研究 弥生・古墳時代及び無文土器~三国時代(最終報告書)、日韓集落研究会 による)
これまでに発掘された鳴神山遺跡の地区は上記の4、5、6に該当すると考えます。
牧の実体を直接示す1、2、3の地区が発掘場所に含まれていないと考えます。
高津馬牧(延喜式記載牧)と白幡前遺跡の関係から類推すると、鳴神山遺跡の集落とそれがかかわった牧現場の距離が3.7㎞程度あると考えても首肯できます。(高津馬牧の母集落が白幡前遺跡であると想定しています。高津馬牧の4、5、6地区が白幡前遺跡であったという想定をしています。)
鳴神山遺跡と対応する牧の位置推定資料
高津馬牧の想定は2014.12.29記事「高津馬牧(延喜式)の位置考察」参照
鳴神山遺跡という発掘調査区域だけに焦点を当てて検討していても鳴神山遺跡集落の生業を把握することは困難です。
検討視野を鳴神山遺跡の北に広がる台地全体に広げる必要があります。
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