私の散歩論

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2016年2月7日日曜日

鳴神山遺跡 刀子の検討 2

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.283 鳴神山遺跡 刀子の検討 2

2016.02.06記事「鳴神山遺跡 刀子の検討」では9世紀第2四半期から9世紀第4四半期までは、集落発展ピークを迎え、そこから凋落した時期で、集落凋落の主因は盗賊の略奪行為であり、その防御のために刀子の意義が変化し、単なる万能道具から武器としての役割に重点が移ったと検討しました。

年代を追う刀子出土イメージは竪穴住居の消長と異なり、9世紀第3四半期では竪穴住居数に比して多いことを論じました。

この様子をデータで表現してみました。

次のグラフは年代別の竪穴住居からの刀子平均出土数です。

鳴神山遺跡竪穴住居 刀子平均出土数

刀子平均出土数は9世紀第2四半期から第4四半期までと、それ以外の年代では大きく異なります。

9世紀第2四半期から第4四半期までは盗賊の略奪行為に対抗するために刀子の役割に武器としての要素が加わり、道具として利用していた時代と比べて、その所持が大幅に増えたものと考えます。

9世紀第3四半期の刀子平均出土数が最高値となりますから、この年代が盗賊による略奪行為が最も深刻であったと考えます。

この考えをポンチ絵で示すと次のようになります。

時代により変化した刀子の役割

武器そのものである鉄鏃について、同じく平均出土数を見ると次のようになります。

鳴神山遺跡竪穴住居 鉄鏃平均出土数

刀子と同じ傾向が読み取れます。

刀子と同じく9世紀第3四半期の平均出土数が最高値となり、この年代の略奪行為が最も深刻であったことをこのデータからも確認できます。

参考までに、紡錘車の平均出土数を見てみます。

鳴神山遺跡竪穴住居 紡錘車平均出土数

右肩上がりでグラフが推移しますから、竪穴住居1軒あたりの道具が時代を追って増え、糸(布、製品等)の竪穴住居1軒あたり生産量は増大していったものと考えます。

8世紀第2四半期から8世紀第3四半期の間には紡錘車平均出土数の飛躍がありますから、8世紀第3四半期になって麻糸(布、製品)の生産のための規模の大きな地域開発が鳴神山遺跡で行われたと考えます。

9世紀になり「久弥良」(クビラ…金毘羅)集団が移住してきたころから鉄製紡錘車が増え、それは絹糸生産を表している可能性を検討しています。

9世紀第4四半期になると、その前の時代より紡錘車平均出土数が飛躍的に増えます。集落全体が凋落するなかで紡錘車平均出土数が増える理由として、糸(布、製品)生産は盗賊の略奪に対して牧(馬生産)より耐性があり、牧が全滅した時、ある程度の人員が糸生産に衣替えしたのではないかと空想します。

牧業務が略奪されて、商品としての馬を盗られてしまえば、その回復には多大の経費と時間が必要となりますが、糸生産の場合は在庫を盗られても、翌年から再び生産活動に入ることは、牧業務とくらべて容易です。




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