船尾白幡遺跡の竪穴住居と掘立柱建物について基礎的なデータを作ってみました。
船尾白幡遺跡の竪穴住居と掘立柱建物の分布
船尾白幡遺跡の竪穴住居軒数は70、掘立柱建物棟数は36です。
この関係を竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数という指数にして近隣遺跡と比較してみました。
船尾白幡遺跡・鳴神山遺跡と萱田遺跡群遺跡の建物情報比較
竪穴住居10軒当たり掘立柱建物棟数
遺跡のくくりをどのように設定するかによって、この指数の意味が変わってしまいますから、厳密な比較はできませんが、竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数の値が大きければ、その遺跡(遺跡としてくくられた範囲)は管理的・拠点的様相が強まると考えて間違いないと思います。
鳴神山遺跡は範囲として広大であり、船尾白幡遺跡は範囲として狭いので、その点は考慮する必要がありますが、船尾白幡遺跡は管理的・拠点的な遺跡であり、鳴神山遺跡は管理的・拠点的な場所を含みつつ、現場的様相(牧集団の居住地)が強いことを上記指数は示していると考えます。
萱田遺跡群でも白幡前遺跡と井戸向遺跡は管理的・拠点的様相が強く、つまり支配層の居住・執務の場所であり、北海道遺跡、権現後遺跡は現場的様相が強かったことはこれまでの検討で明らかになっています。
以上の検討は年代という要素を捨象して検討した結果です。
次に、船尾白幡遺跡の竪穴住居の年代について検討します。
年代別竪穴住居数は次のようになります。
船尾白幡遺跡(Ⅰ、Ⅱ)年代別竪穴住居軒数
この年代の内、Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)は約50年間を含み、他の年代区分と比べるとその幅が大きくなっています。
その点を考慮すると、このグラフは鳴神山遺跡の竪穴住居消長と似ています。
参考 鳴神山遺跡 竪穴住居の消長
ただし、竪穴住居件数のピークが鳴神山遺跡では9世紀第2四半期であるのに対して、船尾白幡遺跡ではⅤ期(9世紀第3四半期)と1四半期分ずれています。
鳴神山遺跡の検討では、竪穴住居軒数のピークは確かに9世紀第2四半期であるけれども、他の要素(例えば平均土器出土数)からみると、9世紀第3四半期にも社会が成長していた側面を見ることもできます。
ですから、船尾白幡遺跡で竪穴住居軒数のピークが9世紀第3四半期になっても大きな不思議はないと考えることもできます。
一方、現場的場面(空間)では9世紀第3四半期には既に退潮の兆しが現れ、管理的場面(空間)では9世紀第3四半期まで退潮の兆しが及ばなかったとも考えられます。
今後他の分析が進み、データが増えれば、この点はおのずから判ると思います。
船尾白幡遺跡の竪穴住居の年代別分布は次のようになります。
船尾白幡遺跡 Ⅰ期竪穴住居分布
8世紀前葉
この付近の開発が始まった場所がこの分布図からわかると考えます。
船尾白幡遺跡 Ⅱ期竪穴住居分布
8世紀後葉~9世紀初頭
Ⅰ期の開発地点を拠点にして、遺跡全体に集落範囲が広がったことが推察できます。
(Ⅱ期は以降のⅢ~Ⅴ期と比べて期間が長いので、その点を考慮する必要があります。)
船尾白幡遺跡 Ⅲ期竪穴住居分布
Ⅰ期の開発地点を拠点にして、遺跡全体に集落範囲が広がったことが推察できます。
(Ⅱ期は以降のⅢ~Ⅴ期と比べて期間が長いので、その点を考慮する必要があります。)
船尾白幡遺跡 Ⅲ期竪穴住居分布
9世紀末~10世紀前半頃
一挙に集落が凋落します。
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