私の散歩論

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2016年3月29日火曜日

墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味

花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.316 墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味

鳴神山遺跡 Ⅰ地点044竪穴住居から「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」と釈文された墨書土器(土師器坏)が出土しています。

墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」出土位置

馬や牛が出てきて、皮の字も出てくるので、馬や牛の屠殺にかかわると想定されていたようですが、意味が不明瞭だったようです。

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参考
以上,西根遺跡は鳴神山遺跡及び船尾白幡遺跡の両遺跡と密接な関係にあったことが墨書土器からもわかる。墨書からは,集落内と流路とでは祭祀の内容はほぼ同一であった可能性が認められる。

なお,鳴神山遺跡では「大國玉罪」と墨書されたものもあり,あるいは西根遺跡出土「丈部春女罪代立奉大神」の「大神」はこの「大國玉」神のことであった可能性も考えられる。

鳴神山遺跡の「大國玉罪」の墨書土器は井戸状遺構とされている土坑から大量の土器,馬と考えられる獣骨の歯,貝と一括して出土している。この井戸状遺構は,水が湧かない擬制的な井戸であり,水に関連した祭祀を行ったという解釈がなされ,出土状況から最初に大型獣の頭部を投げ込んだ後に墨書土器を含めた祭祀に使用した土器を投棄し,最後に貝殻を廃棄していると考えられている。

西根遺跡の「丈部春女罪代立奉大神」の墨書土器が出土した地点(第197図)でも8m前後離れた地点(第196図)から馬の歯がまとまって出土しており,祭祀の内容物についても類似性がある可能性が認められる。

ただし,西根遺跡の場合は流路内からの出土であるので,馬の歯をすぐに祭祀行為と結び付けるのは危険である。奈良・平安時代には流路や溝跡内及び周辺から牛馬の遺体が検出される例が多く存在する。

平城京右京八条一坊十一坪(5)では,西一坊々間大路西側溝から700点あまりの獣骨が出土し,そのうち150点あまりが同定されている。奈良時代末~平安時代初頭のウマ約140点,イヌ3点,ウシ10点等が含まれており,この付近に鋳造とともに斃牛馬処理に関わる官営工房が存在したとみられる(6)。また,大阪府城山遺跡8(7)の奈良時代中頃の溝跡からウマの骨が8部位,15点出土しているが,四肢骨,肋骨に鋭利な刃物による解体の痕跡と,斧状鈍器で,頭蓋骨の上面を外して,脳を取り出した痕跡があるものが出土しており,付近に牛馬を屠殺する場所があったことが考えられている。

このように流路・溝の中に,牛や馬を解体した骨が多くみられることは,皮を洗い,それを干し広げたりする空間や,廃棄物を流し去る豊かな水の流れが必要であったからであると捉えられている。
本遺跡の場合は流路からの出土であり,屠殺した馬を解体したものが捨てられている可能性も残るので,祭祀遺物若しくは馬の解体の両論を並記するに留めたい。

なお,鳴神山遺跡からは9世紀中葉の土師器杯に「馬牛子皮ヵ身ヵ」と墨書がなされたものがあり,意味が不明瞭ながら牛馬の皮?等のことが書かれており,注目される。また,西根遺跡では8世紀後半の土師器椀に漆を塗る際のパレット等として使用されたものがあり,漆工芸を生業とする集団が存在している可能性が指摘できる。漆は木製品・金属製品のみならず,革製品にも利用されており,そうした技術集団が周辺に存在した可能性も残る。

西根遺跡発掘調査報告書から引用
太字は引用者
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意味が不明瞭な理由は明白です。

子の文字の意味が分からないため、人の子供と考えても、馬や牛の子供と考えても屠殺と結びつかないからです。

しかし、子の意味が蚕であることが判りましたから墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味は氷解しました。

西根遺跡発掘担当者が推察したように斃牛馬の処理業務を担当する集団の墨書土器であると考えます。

斃牛馬の処理集団が繭を採ったあとの蛹の処理も一緒に行っていたと考えます。

繭を採った後の蛹は貴重な蛋白源として食物として(あるいはサナギコ等として)利用されたのです。

(子供の頃、釣りでサナギコを使った憶えがあります。)

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参考 

カイコ
餌用・食用

絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の養蚕農家の多くは、鯉、鶏、豚などの飼料として利用した。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることが多い。

また、貴重なタンパク源として人の食用にされる例は多い。90年余り前の調査によると、日本の長野県や群馬県の一部では「どきょ」などと呼び、佃煮にして食用にしていたと報告されている[4][要出典]。現在でも、長野県ではスーパー等で佃煮として売られている。伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼び、これも佃煮にする。朝鮮半島では蚕の蛹の佃煮を「ポンテギ」と呼び、露天商が売るほか、缶詰でも売られている。中国では山東省、広東省、東北地方などで「蚕蛹」(ツァンヨン、cānyǒng)と呼んで素揚げ、煮付け、炒め物などにして食べる。ベトナムでは「nhộng tằm」(ニョンタム)と呼んで、煮付けにすることが多い。タイ王国でも、北部や北東部では素揚げにして食べる。

ヒトに有用な栄養素を多く含み、飼育しやすく、蛹の段階では内臓に糞が詰まっていないことから、長期滞在する宇宙ステーションでの食料としての利用も研究されており、粉末状にした上でクッキーに混ぜて焼き上げる、一度冷凍したものを半解凍する、などの方法が提案されている。今では言われなければわからないほど自然な形に加工できるようになっている。

また、蛹の脂肪分を絞り出したものを蛹油と呼ぶ。かつては食用油や、石鹸の原料として利用された。現在では主に養殖魚の餌として利用される。

ウィキペディアから引用
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墨書土器「馬牛子皮ヵ身軆ヵ」の意味は、斃牛馬処理集団が、斃馬・斃牛から有用な皮革、肉、骨を、繭を採り終わった蚕の蛹から有用な食べ物を豊かに生産して、自分たちの使命を全うしたいと考え、自分たちの業務発展の祈願をしたものと考えます。

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参考 軆

軆は体の俗字

体の解字
形声。篆文は、骨+豊(音)。音符の豊(レイ=テイ)は、㐱(シン)に通じ、多くのものが密度高く集まるの意味。多くの骨からなる、からだの意味を表す。常用漢字の体は、もと人+本(音)の形声文字で、あらい・おとるの意味を表したが、中国でも古くから體の俗字として用いられたもの。

『新漢語林』 大修館書店から引用
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斃牛馬処理集団が養蚕で不用となった死んだ蛹を処理していたということから、鳴神山遺跡でも養蚕が大規模に行われていたことが判ります。

現代風に言えば、養蚕農家を専門業者が廻って死んだ蛹を買い集め、佃煮にして販売しているということです。

鳴神山遺跡の紡錘車の主な使われ方が絹生産であることが判ってきました。鳴神山遺跡の生業を考える上で、貴重な情報を得ました。




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