花見川地峡史-メモ・仮説集->3花見川地峡の利用・開発史> 3.4〔仮説〕律令国家の直線道路、東海道水運支路の検討>3.4.328 西根遺跡の漆関連出土物
2016.04.10記事「参考 千葉県における漆関連墨書文字分布 その2」で乾漆を示す「息」が西根遺跡でも出土していることを知りました。
早速西根遺跡の漆関連遺物を発掘調査報告書から調べてみました。
次の3点が出土しています。
●墨書土器「息」
●木胎漆器(椀)
●漆容器(土師器椀転用)
その分布を次に示します。
船尾白幡遺跡墨書文字「七」「知」「息」と西根遺跡漆関連遺物の出土状況
出土位置から、墨書土器「息」は船尾白幡遺跡の集落から持ち込まれたもの、木胎漆器と漆容器は鳴神山遺跡(あるいは白井谷奥遺跡)から持ち込まれたものと考えます。
参考 西根遺跡流路5(奈良時代後半~平安時代) 墨書文字「天」(アメ、則天文字)と「大」及び長文の出土位置からみた土器投げ込み集団の推定
2016.03.10記事「西根遺跡 出土物から見る空間特性 その2」参照
船尾白幡遺跡から「息」が出土していて、西根遺跡の船尾白幡遺跡領域から「息」が出土しますから、情報は整合します。
船尾白幡遺跡の乾漆工房の技術者が戸神川水辺で、自分が大事にしていた「息」と墨書した土器を投げ込んで祈願行為をしたものと考えます。
その祈願内容は墨書内容とは異なり、治水や利水・舟運などの川に関わる祈願であったと推定します。
木胎漆器と漆器容器がどのような経緯で川底に埋まったか、その理由は複数考えられます。
木胎漆器は、
1水辺の祭祀でつかわれ、最後に廃棄された
2出荷製品が川底に落ちた
3壊れた廃品が川に捨てられた
などが考えられます。
2出荷製品が川底に落ちたの可能性が高いと考えます。(ちなみに、縄文時代遺物として漆塗り飾り弓が出土していますが、私はこれも交易品が何らかのはずみで、川に落ちたものと考えました。)
木胎漆器が出土したことから、鳴神山遺跡で木胎漆器が作られていたことが濃厚になりました。
ここまでの情報で、鳴神山遺跡では木胎漆器、皮革漆製品、船尾白幡遺跡では麻による乾漆がつくられていたと考えます。
漆容器が川底に埋まった経緯として次のような理由を考えました。
1 祭祀で土器として川に投げ込んだ。
2 漆汁液を入れた容器を運搬している最中に誤って川に落とした。
3 不用容器が川に廃棄された。
漆が実際に入っているので、2 漆汁液を入れた容器を運搬している最中に誤って川に落としたの可能性が高いのではないかと考えます。(ちなみに縄文時代遺物として同様の漆パレットが出土していて、その出土も漆運搬中の事故で川に落ちたと考えました。)
漆の液体は貴重品であり、その入手が困難であり、その入手のために舟運を利用していた可能性があります。
漆液体は鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡の漆工房付近から遠方に運ばれるものではなく、逆に、漆工房の無い遠方から鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡に持ち込まれたものと考えます。
鳴神山遺跡や船尾白幡遺跡付近が下総国でも屈指の漆工房地帯であり、そこに水運で運ばれる漆液体も多く、そのため事故で水中に没してしまった漆液体のあり、それが出土したと考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿