船尾白幡遺跡では掘立柱建物の柱穴から墨書「子」が出土して、掘立柱建物が養蚕施設であった可能性が濃厚になりました。
鳴神山遺跡では「子山本」(養蚕胴元の発展祈願)の文字が掘立柱建物群の真ん中に位置する竪穴住居から出土していて、鳴神山遺跡でも掘立柱建物群が養蚕施設である可能性が濃厚になりました。
家畜としての昆虫(蚕)を飼い、繭生産をする場所が掘立柱建物であると考えました。温度湿度管理及びスペースを考えると、人が住む竪穴住居ではなく、掘立柱建物を繭生産工場にすれば効率がアップします。
もし掘立柱建物が養蚕施設であるとすれば、その活動を展開するためには資本が必要ですし、その維持管理はある程度専門的専業的な活動になります。個々の住民が単独で行う活動でないことは確実です。
そして、生産した繭から紡錘車を使って生糸を紡ぐ作業は場所をあまり必要としない女性の家内労働で済みますから、その作業は竪穴住居で行われたに違いありません。
つまり、生糸生産までの工程では掘立柱建物と竪穴住居の双方に分かる分業体制があったと考えられます。
この仮説が支持されるかどうか、鳴神山遺跡で検討してみました。
1 掘立柱建物における養蚕活動を示す指標
依」集団表現文字「依」「衣」」と養蚕表現文字「子」「小」出土が掘立柱建物でおこなう繭生産活動の指標であると想定して、その分布図を作成しました。
養蚕活動を示す文字「子」「小」と統率関連語(集落内での上層・支配層・中枢部を示すと考える文字…万-政所、長(おさ)-リーダ、冨-富集積、山本-胴元)が共伴出土する場所が4カ所もあります。
参考 鳴神山遺跡 子、小と共伴出土する墨書文字
このことから、「子」「小」(=蚕)の出土は掘立柱建物における繭生産を担った胴元(長(おさ))の存在を表現していると考えます。
現代風にいえば養蚕施設経営者サイドが文字「子」「小」を書いたといえます。
ですから、「子」「小」出土はその場所付近で繭生産が行われたと考えます。
同じく「依」「衣」出土も、それを書いた集団をキヌ生産集団と考えましたから、その出土場所の近くで繭生産が行われたと考えます。
2 竪穴住居における製糸活動を示す指標
竪穴住居からの紡錘車出土が繭から生糸を紡ぐ活動の指標になると考えます。
3 2つの指標の年代別対照
参考 掘立柱建物の分布 掘立柱建物群位置説明用記号
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第1四半期
掘立柱建物群Aの中心に位置する竪穴住居から「依」が出土していることから、掘立柱建物群Aが養蚕施設であったと考えられる。
紡錘車はその近くの竪穴住居から出土していて、鳴神山遺跡の集落建設最初期の養蚕の姿を示していると考えます 。
鳴神山遺跡集落の主部は発掘区域外の南の土地にあったと考えられますから、掘立柱建物群Aは当時の集落外縁部に位置していたと考えます。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第2四半期
8世紀第1四半期と状況は同じです。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第3四半期
掘立柱建物群Bから文字「子山本」が出土していますから、掘立柱建物群Bも養蚕施設に加わったと考えます。
情報は途切れていますが、この期も掘立柱建物群Aは養蚕施設であったと考えます。
紡錘車出土が遺跡の遠方まで広がっていますから、養蚕業が発展している様子が判ります。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 8世紀第4四半期
8世紀第3四半期と状況は似ています。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第1四半期
掘立柱建物群A、B、Eが養蚕施設として利用されたと考えます。
紡錘車はその近辺から出土していて、掘立柱建物で生産された繭をその近辺の竪穴住居で生糸に紡いだ様子を想像できます。
なお、遺跡南縁付近に文字「依」「子」「小」が出土します。この出土が掘立柱建物群Aに対応するものか、それとも遺跡外南側に掘立柱建物が存在していたのか、不明です。
この時期が鳴神山遺跡の経済活動の最盛期です。
掘立柱建物群A、B、Eが養蚕施設として活用され、そこで生産された繭が近隣の竪穴住居に小分けして持ち込まれ、紡錘車で生糸を紡いだ様子を感得することができます。
2016.01.25記事「鳴神山遺跡 紡錘車出土と「依」集団との関係」で「紡錘車の分布と文字「依」の分布がお互いを避けるように見えることは不思議です。」と書いた不思議が解けたことはうれしいことです。
ささやかな進歩を実感できます。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第3四半期
9世紀第2四半期と状況は似ていますが、養蚕活動が縮小しています。
紡錘車出土イメージと文字「依」「衣」出土イメージ 9世紀第4四半期
養蚕活動がさらに縮小しています。
ここまでの検討では、蚕を飼って繭を生産する場が掘立柱建物であったと考え、繭から生糸を紡ぐ作業が竪穴住居で行われたと考えました。
紡がれた生糸は絹布に機織りされたと考えます。その場が掘立柱建物であったのか、竪穴住居であったのか、現在はイメージを持っていませんので、今後検討します。
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