墨書文字 帀(アマ)の例
1 Ⅰ期(8世紀前葉)
Dゾーンに3軒の竪穴住居があり、それは古墳時代から継続してきている集落の一部であると考えます。
8世紀前葉では帀(アマ)は出土しません。
2 Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)
8世紀後葉~9世紀初頭は蝦夷戦争時代であり、下総国では各地で兵站基地(新規開発集落)が建設されました。
船尾白幡遺跡も兵站基地(新規開発集落)建設場所です。
この年代に入ると、Dゾーンの竪穴住居が急激に増え、同時にA、B、Fゾーンにも新たに竪穴住居が作られました。
この時代になった初めて帀(アマ)が出土します。
しかもDゾーンとFゾーンの2個所で出土します。
Dゾーンは既存集落が高密度化したところで、兵站基地建設にあたり、支配(行政)拠点として建設されたと考えます。
Dゾーンが支配(行政)拠点であったことは、この年代を含め、Dゾーンからのみ銙帯(官人が着用)が出土していることから証明できます。
参考 船尾白幡遺跡 銙帯出土状況 1
参考 船尾白幡遺跡 銙帯出土状況 2
Fゾーンは蝦夷戦争のために全く新規に開発されだした場所です。
帀(アマ)が集落支配に関わる拠点と新規開発場所の双方から同時に出土していることから、この墨書文字が蝦夷戦争の兵站基地建設と関わっていることが類推できます。
蝦夷戦争兵站基地建設を主導したのは律令国家ですから、墨書文字帀(アマ)は律令国家が備える思想や文化などと密接に関係するものであると考えます。
つまり、帀(アマ)は律令国家によってこの場所に持ち込まれた祈願語であると考えます。
帀(アマ)が天照大御神を表し、その背景にこの付近の宗像三女神信仰との関連性があるというこのブログの考えと、合う(矛盾しない)結果となりました。
3 Ⅲ期(9世紀第1四半期)
9世紀第1四半期は蝦夷戦争が終わり、その動員圧がなくなり、集落が大発展し出す最初の時期です。
この年代ではFゾーンで竪穴住居が増え、その場所で前代に始まった帀(アマ)出土が増えます。
Dゾーンでも帀(アマ)が引き続き出土します。
4 Ⅳ期(9世紀第2四半期)
各ゾーンで竪穴住居が増え、集落の最盛期に近づいているとともに、帀(アマ)も各ゾーンで増えます。
8世紀後葉~9世紀初頭にまかれた帀(アマ)という文字の種が集落全体に広がって育ったというような様子としてみることができます。
帀(アマ)が祈願語として集落全体で使われていたこの時期は、心理面(感情面)で集落に求心性があったと想像します。
5 Ⅴ期(9世紀第3四半期)
9世紀第3四半期は集落の絶頂期であり、同時に凋落の条件を既に内包している年代です。
鳴神山遺跡の検討では、この時期から治安の悪化が激しくなっています。
帀(アマ)の出土は再びFゾーンとDゾーンに限定されます。Ⅱ期(8世紀後葉~9世紀初頭)、Ⅲ期(9世紀第1四半期)と似た分布になります。
このことは、帀(アマ)を祈願語に使っていた人々が別の文字を祈願語として使いだしたことを物語っています。
祈願語からみて、社会が多様化しているということです。
集落の心理面(感情面)における求心性は減少したと考えます。
6 Ⅵ期(9世紀末~10世紀前般頃)
集落の竪穴住居もほとんど消滅し、帀(アマ)も出土しなくなります。
墨書文字(祈願語)帀(アマ)の消長から、集落の消長をたどることができました。
帀(アマ)だけでなく、墨書文字(祈願語)全体の年代的・空間的変化をもっと総合的に捉えると、集落消長の要因を知る手がかりを得ることができそうです。
……………………………………………………………………
追記 2016.07.19
画像中の遺跡名が間違っていましたので、訂正したものに差し替えました。
……………………………………………………………………
追記 2016.07.19
画像中の遺跡名が間違っていましたので、訂正したものに差し替えました。
0 件のコメント:
コメントを投稿