私の散歩論

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2016年8月11日木曜日

墨書文字「万」が政所(マンドコロ)を意味している事例

上谷遺跡の墨書文字「万」について、発掘調査報告書では多くの富を得たいという願望に関わる福徳の祈願であると考えています。

このブログでは近隣遺跡でも多く出土する「万」の多くが政所(マンドコロ)の意味であると考えています。

今後上谷遺跡のデータを詳しく分析しますが、それに先立ち、視野を千葉県全体に広げると「万」を政所(マンドコロ)の意味で使っている可能性が極めて濃厚な遺跡事例がありますので、参考に学習した結果を紹介します。

1 大網山田台遺跡群の位置

大網山田台遺跡群の位置を次に示します。

大網山田台遺跡群の位置

大網山田台遺跡群は古代上総国山辺郡に位置し、近くの郷は山口郷、高文郷です。

2 大網山田台遺跡群から出土する墨書文字「万」

大網山田台遺跡群から出土する墨書文字「万」を整理しました。

大網山田台遺跡群 墨書文字「万」

●万所は政所(マンドコロ)である

「万所」3、「山万所」1、「山邉万所」1、「万所□□」1点の合計6点の万所は漢字の読みから、政所(マンドコロ)と解釈して間違いないと思います。

この場所が古代山辺郡に属していて「山邉万所」が出土するのですからこの解釈の蓋然性は高いものがあると考えます。

また、「山万所」の山は山辺郡の山か、山口郷の山のどちらかだと思います。

●万も政所(マンドコロ)である

「山口子万」が出土します。

山口は山口郷と考えて間違いないと思います。

子はこのブログで蚕(コ)であることを突き止めました。

2016.03.26記事「船尾白幡遺跡における養蚕を示す墨書文字「子」「小」」参照

従って万の解釈は次のような構造の中で行う必要があります。

地名(自分がいる場所)+蚕+万

もし万を富を増やしたいという祈願語として考えると次のような解釈になります。

「山口郷の繭の生産を増やしたい。」

墨書土器は、それで、個人が自分の願望を祈願するものですから、平仄があいません。

山口郷の繭生産を増やしたいという行政的、計画的、統治的願望が墨書文字で書かれるということはあり得ないと思います。

万を政所(マンドコロ)という意味で考えると次のような解釈になります。

「(私が所属して活動している)山口郷繭生産を取り仕切っている政所の発展を祈願する。」

山口郷で、住民や俘囚・奴婢を働かせて繭生産を取り仕切っている生産単位が政所(マンドコロ)と呼ばれていて、その生産単位の活動発展の祈願が「山口子万」(ヤマグチコマンドコロ)になったのだと解釈します

この検討から万は1語でもマンドコロと読み、政所と解釈できることが判ります。

●万(政所(マンドコロ)の階層性

「文万」2点、「文万坏」1点が出土します。

文は地名高文郷の文であると考えることが合理的であると考えます。

そのように考えると、上で検討した「山万所」は山口郷に対応してと考えることができそうです。

つまり次のような郡・郷に対応した政所(マンドコロ)が墨書されていたと考えます。

上総国山辺郡に対応した政所…「山邉万所」

山辺郡山口郷に対応した政所…「山口子万」、「山口万」

山辺郡高文郷に対応した政所…「文万」、「文万坏」

このように考えると、万=政所(マンドコロ)という概念は階層的であることがわかります。

社会統治(生産統治)は階層的であり、現場の政所(マンドコロ)から郡全体を束ねるような政所(マンドコロ)まで存在したと考えます。

隣組的現場生産単位までマンドコロと呼んでいたならば、祈願語「万」を書く人数は膨大に上ると考えます。

また、子万にみられるように生業集団別にマンドコロが存在していたと考えます。

私は次のようなマンドコロの存在を想像しています。

生万…養蚕(生糸)
田万…稲作
廿万…布生産(ツヅラ)
千万…取引(銭)

現時点の私の学習段階では、大網山田台遺跡郡の墨書文字「万」は単独出土を含めてほとんど政所(マンドコロ)の意味であると想定します。

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参考

まんどころ 【政所】

①財政や訴訟など日常的政治実務を処理した政庁。

政所の語は奈良時代の史料にもみえ,8世紀中期には〈造東大寺司政所牒〉〈筑前国政所牒〉などもみえる。

大宰府や国などの政府出先機関や半ば公的性格をもっていた大寺社などは,早くからその財政に関する収納や給田などの実務と,訴訟の受理・裁断,人事の管理,使者の発遣,文書の受理・発給・保管などの日常的政治支配を行う機関として政所を設置し,またその庁舎である政所屋〘まんどころや〙をもときに政所とよんでいた。

荘園制が盛行する11世紀以降には,荘園の現地に政所をおき,日常的な徴税や荘民の訴論を処理したところも少なくない。

②諸家の家政機関。

律令制では親王および職事の三位以上の家は,〈家令職員令〉に規定された▶家司〘けいし〙によって家事を処理する一種の公的機関でもあったが,平安中期になると親王・公卿家の家政機関として別当以下の役員をそなえた政所が整えられる。

おそらく地方土豪の托身などによる家人〘けにん〙の増加や,家領荘園の拡大による家政の膨張がその原因だろう。

特に摂関家政所では別当,令,知家事,案主,従などに分掌化した多くの家司を抱え,彼らは殿下御領,家領荘園,氏人の進退などのほか一般政治にも関与した。

11世紀には下達文書として〈摂関家政所下文〉の様式も定まるが,これは家産の領域を超えて諸権門の利害調停という国家的機能をも果たした。

貴族社会では三位となって資格を得ると政所を置くのが普通となり,婚姻や▶移徙〘わたまし〙があると政所始〘まんどころはじめ〙の儀式を行った。

妻は無位でも夫が資格を得ると政所を置いたが,その政所は夫とは別であった。

後世,摂関家をはじめ貴族の妻を政所,北政所〘きたのまんどころ〙と称するようになる理由はここにあったと考えられる。

『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
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この記事の検討は千葉県墨書土器データベース(本編、補遺1、補遺2)のデータだけで行いました。

発掘調査報告書は閲覧していません。

後日発掘調査報告書を閲覧して、そこで墨書文字「万」がどのように解釈されているか学習し、ブログ記事で報告します。






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