その詳細を検討し、墨書文字共有集団特有の遺構空間配置に規則性があるか検討します。
1 墨書文字「得」の分布特性
墨書文字「得」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。
墨書文字「得」ヒートマップと主な出土遺構
ここで主な出土遺構とは「得」の出土数が「西」「竹」「万」より数が多い遺構を示しています。
ですから、主な出土遺構は墨書文字「得」を共有する集団が、他の集団より凌駕して強く関わっていた遺構であるといえます。
さらにその関わりの強さはヒートマップで表現されます。
「得」出土が最も大いにはA102遺構です。
A102遺構は掘立柱建物群に囲まれた広場の中心にあたるような場所に存在します。
多数の出土遺物はその覆土層に集中しています。
A102遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
打ち欠きされて出土した墨書土器「得」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
掘立柱建物群の近くに存在した集落有力家の当主が死亡して、モガリ等の後その家(竪穴住居)跡が一種の聖地になり、打ち欠き土器を捨てる穴(埋める穴)になったのではないかと空想します。
掘立柱建物群近くの最も重要な竪穴住居跡が打ち欠き土器を捨てる穴(埋める穴)になるという現象は、「得」だけでなく、「西」「竹」「万」も全く同じですから、上記空想解釈の合理性があってもなくても、大いに興味が湧きます。
生活に重要な鉄製品等の出土もあるため、掘立柱建物群近く(生業に関わる業務地区近く)の特定竪穴住居跡が特別の意味(聖地など)を持ったのだと思います。
単純なゴミ捨て場ではないと考えます。
現代でも水辺にコインを投げるような風習が日本と世界にありますが、それと類似した祈願の場所が聖地化した特定竪穴住居跡に生まれたと想像します。
「得」の分布はA102竪穴住居住居付近に集中しますが、少し離れた西にヒートマップの色が変わったところがあります。
「得」の出土が多い遺構があります。
副次的な祈願場所であった可能性があります。
さらによく見ると、「得」の分布は離れた北にも、発掘区域南西にも飛び地的に分布します。
このような分布は他の文字でもほとんど同じになります。
2 墨書土器「西」の分布特性
墨書文字「西」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。
墨書文字「西」ヒートマップと主な出土遺構
掘立柱建物群に囲まれたA233竪穴住居跡から多量の遺物が覆土層から出土します。
A233遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
打ち欠きされて出土した墨書土器「西」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第5分冊-」(2005、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
A233竪穴住居付近だけでなく、集落全体に「西」が他の文字より量が凌駕して出土する遺構が点在します。
3 墨書土器「竹」の分布特性
墨書文字「竹」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。
墨書文字「竹」ヒートマップと主な出土遺構
A209遺構の遺物出土場所
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
打ち欠きされて出土した墨書土器「竹」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第4分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
墨書土器「竹」もA209竪穴住居の周辺だけでなく集落の南半部の広い範囲から出土します。
4 墨書土器「万」の分布特性
墨書文字「万」ヒートマップと主な出土遺構を次に示します。
墨書文字「万」ヒートマップと主な出土遺構
掘立柱建物群に囲まれたA078竪穴住居から打ち欠きされた多数の墨書土器「万」が出土します。
この遺構でも覆土層から出土しています。(図なし)
打ち欠きされて出土した墨書土器「万」
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第2分冊-」(2003、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
5 墨書文字共有集団の遺構空間配置(仮説)
以上の4つの文字共有集団の遺構観察から、次のような墨書文字共有集団の遺構空間配置仮説を考えてみました。
墨書文字共有集団の遺構空間配置(仮説)
「得」「西」「竹」「万」の文字については、墨書土器が1つあるいは2つ出土する遺構はその集団が居住していたと想像しました。
多数出土する遺構は、その場所が集団の「聖地」であり、打ち欠き墨書土器が捨てられた(埋められた)と考えました。
近隣遺跡検討を踏まえれば、次のような時間的変化の空想が頭をよぎります。
8世紀から9世紀初頭頃までは掘立柱建物群に囲まれる広場中央に位置するような場所に、同じ墨書文字を共有する集団リーダーが居住する竪穴住居が存在していて、家(集団拠点)として利用されていた。
9世紀前半から始まった急激な集落発展、人口増加時期にそれまで集団リーダーが居住していた竪穴住居が家から聖地(穴)に変化して、その場所が祭祀(集団祈願)の場に変化した。
集団リーダーの家(拠点)は近くの場所に移転した。(おそらく数十メートル範囲内程度の場所、鳴神山遺跡の例による)
なお、残念ながら上谷遺跡の発掘調査報告書では遺構の年代推定は行われていません。
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