その一環として出土馬具について検討し、できれば牧空間の存在やその場所推定を記事にしようとしました。
上谷遺跡出土馬具(A177竪穴住居)
ハミの一部
「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用
しかし、その付近にいくつかの竪穴住居が存在していて「邪魔」です。
何故そのような場所に竪穴住居が3軒あるのか、その竪穴住居の特性はどのようなものであるのか知るために発掘調査報告書を調べました。
そうすると、なんとその「邪魔」な場所にある竪穴住居は縄文時代のものでした。
上谷遺跡検討は奈良・平安時代に絞っていて、遺構・遺物も全部奈良・平安時代のものに限定して作業しています。
自分の不注意が残念でした。
発掘調査報告書第3分冊には全時代の遺構分布図と時代別遺構分布図が存在していて、私は勘違いにより全時代遺構分布図をGISにプロットしていたのでした。
勘違いは残念で、これから行うデータ修正作業は手間がかかりますが、「邪魔」という自分の感覚が間違っていなかった可能性が高まりましたので、内心「やっぱり」という感じを持ちました。
同時に「まてよ」という思考が突然生まれました。
縄文時代住居がそこにあるということは、その場所に水が必ずあるという証拠です。
水があるということはその場所の地形が谷頭であるということです。
谷頭で水が出るから奈良・平安時代土坑がその場所に集中している。
つまりその土坑は馬の水飲み場。
そういえば、発掘調査報告書に竪穴住居を穴として認めないような埋め戻しがみられる。
それは牧空間だから、馬が穴に落ちないようにしたに違いない。
つまり縄文時代住居を勘違いして書き込んだ場所は、牧空間にちがいない。
このようなイメージが一気に頭をよぎりました。
これから詳しく検討しますが、上谷遺跡の牧空間の場所を発見したようです。
上谷遺跡付近の地形は次のように解釈できます。
上谷遺跡付近の開発前現代地形の解釈
八千代市都市計画課から複製承認をいただいた開発前地図が大いに役立ちます。
旧版2万5千分の1地形図ではこのような思考は無理です。
鳴神山遺跡では牧空間を自分が満足するような情報として抽出することは、結局出来ませんでしたが、上谷遺跡では成功できそうです。
なお、牧空間の検討だけでなく、縄文時代の遺構情報、地形情報が古代遺跡検討と結びついたので、その点で自分の検討意欲が急増大します。
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