私の散歩論

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2016年10月28日金曜日

資料精査による鍛冶関連情報再ピックアップ

このブログでは現在、上谷遺跡の鍛冶関連遺物・遺構の検討(学習)をしています。

検討を進めるに従い発掘調査報告書精査の必要性に気が付き、鍛冶関連情報について発掘調査報告書全6冊について詳しく読み直しました。

鍛冶関連遺物情報が(鍛冶に限らず他の対象も全てですが)遺物観察表やスケッチに掲載されているとは限らず、文章中に単に「多くの鉄滓が出土した」などとさらりと書かれている場合もあるからです。

また、鍛冶関連遺物が出土しないけれども鍛冶行為が疑われる被熱ピット等が存在する遺構についてはこれまで詳しく調べてこなかったからです。

1 鞴羽口・鉄滓出土遺構

発掘調査報告書精査の結果、次の15個所の遺構から鞴羽口あるいは鉄滓出土情報を確認しました。

上谷遺跡 鞴羽口・鉄滓出土遺構

遺構種類別にみると、竪穴住居11カ所、掘立柱建物2カ所、土坑2カ所の内訳になります。

遺跡区域の北端部には出土しません。

遺跡区域の南部に出土が密であるような分布となっています。

なお当初調査では次の8遺構の情報でしたから2倍近く情報が増えたことになります。

参考 2016.10.09記事「上谷遺跡 鍛冶関連出土物」掲載 上谷遺跡 鞴羽口、鉄滓出土遺構

2 被熱ピット等のある竪穴住居

被熱ピット等のある竪穴住居をピックアップしました。

なお、「不用材を焼却した」と発掘調査報告書で書かれている竪穴住居が多数あります。遺構の床面上の覆土層に焼土がある遺構です。

このような覆土層(たとえその最下部でも)に焼土層があるものは、別に被熱ピット等が無ければ、それだけでは「被熱ピット等のある竪穴住居」には含めていません。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居

遺跡区域北端部を除き、ほぼ全域から17ケ所ピックアップできました。

これらの被熱ピット等のある竪穴住居がほんとうに鍛冶遺構であるかどか、これからの検討課題となります。

この17遺構のうち次の2遺構はすでに検討しています。

A133竪穴住居 2016.10.24記事「上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

A102a竪穴住居 2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討

なお、17遺構のうち次の2遺構は発掘調査報告書の記述の中で鍛冶行為の存在を疑っています。

A188竪穴住居(火床状赤化ピット、鉄滓出土、本来の使用目的が「火の使用」)

A242竪穴住居(鉄滓と強い火熱痕、小鍛冶想定)


掘立柱建物に関連して存在する被熱ピットは存在しないようです。

土坑で被熱しているものの検討は2016.09.21記事「上谷遺跡 被熱土坑」で行っていて、現状では鍛冶に関連しているものはないと考えています。


3 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ

被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構のオーバーレイ図を作成しました。

上谷遺跡 被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構

考察

●被熱ピット等のある竪穴住居はそのほとんどが鍛冶遺構であると想定しますが、その検証が必要です。

●被熱ピットの様式が2つに分割できるような印象を持っています。(浅い被熱ピットと小さいがえぐられた焼土充填ピット)

この様式の違いが鍛冶様式の違いによるものかどうか検討が必要です。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鉄滓等が一緒に出土している遺構は鍛冶遺構である可能性が一段と濃厚であると考えます。

したがって、その遺構状況を詳しく調べれば、その結果を被熱ピット等のある竪穴住居が鍛冶遺構であるかどうかの判断材料に使える可能性があると考えます。

●被熱ピット等のある竪穴住居と鞴羽口・鉄滓出土遺構が重なる割合が少ない理由を次のように考えます。

ア 鍛冶遺構であった竪穴住居が廃絶する時、他の竪穴住居と同じように、ほとんど全ての什器や道具を持ち出している。

イ 規模の大変小さな小鍛冶であり、もともと残るような遺物が少ない。

従って、アとイから、鍛冶遺構から鍛冶関連遺物が出土しにくいと考えます。

ウ 鞴羽口や鉄滓が一種の威信財のような記念物として扱われ、廃絶した竪穴住居で行われる祭祀の際に、その場所に墨書土器、鉄器などと同じようにお供え物として埋められた(置かれた、投げ込まれた)

従って、覆土層から出土している鞴羽口や鉄滓はほとんど全てお供え物であると考えます。(「流れ込んだ」という安易な考えに反対します。)




2016年10月26日水曜日

上谷遺跡 土坑底から壁にへばりついていたのは草のカヤ

2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」及び2016.10.23記事「上谷遺跡 鉄滓が出土している燈明皿多出土坑」で検討したD268土坑のカヤ材については常緑高木のカヤ(榧)であると想定してきました。

しかし、八千代市立郷土博物館からのアドバイス等により草本のカヤ(イネ科のススキ、チガヤ、アシ、ヨシ等)のことである可能性が有力になりましたので記事にして報告します。

1 八千代市立郷土博物館からのアドバイス

10月始めに八千代市立郷土博物館にD268土坑出土カヤが草のカヤか、常緑高木のカヤか質問させていだだきました。

昨日、八千代市立郷土博物館からアドバイスをいただき、D268土坑のカヤは草のカヤの可能性が高いとのことでした。より正確には解像度の高い写真を探して確認していただけるとのことでした。

2 報告書写真の拡大

このアドバイスをいただき、報告書の写真の判断ができないと思い込んでいるだけではなく、自分自身が積極的に写真を拡大して確認してみることが可能であることに気が付きました。

次の報告書写真を拡大してみました。

発掘調査報告書のD268土坑写真
(文中の番号D269は報告書の過誤)

Photoshopで写真を拡大すると、ストロー状の材が丸い束になっている様子が写っていることが判明しました。

上谷遺跡 D268土坑底の写真

この写真から、D268土坑の底から壁にかけて炭化したカヤ材が貼り付くように出土しているという記述のカヤ材が草本のカヤであることがほぼ確実になりました。

ススキやアシなどを束ねてそれを土坑の底から壁にかけて敷きつめた様子が浮き彫りになりました。

同時に常緑高木のカヤ実の処理機能という想定は棄却されました。

常緑高木のカヤと草本のカヤでは土坑の利用についてその解釈が大きく異なってきます。

上記記事の訂正は別途行います。

2016年10月24日月曜日

上谷遺跡 鍛冶遺構を疑う竪穴住居

上谷遺跡の鍛冶遺物、鍛冶遺構について学習を進めています。

これまで鞴羽口あるいは鉄滓が出土した遺構が9カ所あり、そのうち8カ所は鍛冶遺物は出土しているものの鍛冶遺構ではないことが確認できました。

残るA102a竪穴住居は炉状ピットが存在することから鍛冶遺構であることを疑っています。

これ以外に、鍛冶遺物が出土しないすべての遺構について、それが鍛冶遺構の可能性があるかどうか検討しています。

その検討の際中ですが、A133竪穴住居が鍛冶遺構である可能性を感得できましたので、メモしておきます。

1 A133竪穴住居の位置

A133竪穴住居の位置

2 A133竪穴住居の記述
……………………………………………………………………
A133

検出地区

L7-47-2g、L7-48-1・1gにて検出した。

遺構

長軸3.60m×短軸3.32m×壁高0.57m、主軸方位はN-27°-Eを示している。

平面形は隅丸方形である。

床はハードロームに暗褐色土が混じる、よく踏み固められた貼床である。

住居跡中央部にて硬化面を平面屈曲して認めたが、その脇では火熱により床表面が損壊していた。

床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。

床面でピットを3基検出したが、主柱穴は不明であり、壁柱穴を確認したにとどまっている。
P1・P3が出入口施設のピットであろうが、P2が柱穴としてよいか迷うものであった。

ピットの覆土は暗褐色土であったが、P1はロームを多く含み、P2・P3は焼土粒子が包含されていた。

周溝は、竈袖下まで巡っており、住居跡全体を巡るものであった。

しかし南東壁では二重に周溝が巡っていた。

竈は北西壁の中央に築かれており、壁を浅く掘込み煙道部としていた。

竈は袖の基礎部にロームが壁から張り出し、その上に白色粘土と黒色土を混合させたものを積んでいた。

また、袖の内壁は赤化していた。

火床は緩やかな傾斜を持ち、強く赤化していた。

なお、住居廃絶後に不用材などの焼却が行われ、壁から住居跡床中央に向かって炭化材が出土している。

覆土は、住居廃絶時にこの不用材の焼却による火の使用と投入土(7・8層)、覆土中層(5層以上)以上の暗褐色土を主体とした自然堆積によって埋没していた。

7・8層からは炭化材を検出しており、焼土も混入しているものである。

遺物

竪穴住居全体に散在して、遺物は出土している。

2・3・4・7はいずれも床面から出土しているが、7は横倒した状態で、3は伏せた状態であった。

1は竈右袖の外に置かれた状態であったが、竈の崩壊粘土で埋没していた。

所見

本住居跡は、南東壁下に二重に巡る周溝より、住居の若干の拡張が行われていたことが捉えられた。

また、それに伴う出入口の改替が行われたのか、P1・P3が平面配置上検討すべきことになる。

竈等からの配置的にはP1であるが、P3の覆土は焼土粒子を含み、住居廃絶時の覆土に近似することから、P1からP3への出入口施設の改替があったと考えたい。

本住居跡の住居廃絶時の不用材の焼却に関わる投入土では、遺構が完全に埋戻されてはいなかったことが覆土の堆積状況から捉えられた。

覆土中位まで埋め戻した住居跡はその後しばらく「穴」として放置され、自然の堆積に任せたような遺構であった。

A133

A133

「千葉県八千代市上谷遺跡 (仮称)八千代市カルチャータウン開発事業関連埋蔵文化財調査報告書Ⅱ -第3分冊-」(2004、大成建設株式会社・八千代市遺跡調査会)から引用

アンダーラインは引用者

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3 A133竪穴住居の検討

発掘調査報告書ではこの竪穴住居が鍛冶遺構である可能性は検討されていません。

その背景にはこの住居が廃絶後焼却されていることがあると思われます。

記載では「火熱により床表面が損壊していた。床には、焼土粒や炭化粒が散っていた。」となっていて、廃絶後の住居焼却によるものではない事象を観察していた可能性を感じます。

他の焼却住居の記載では「床に焼土粒や炭化粒が散らばっていた」というような記述はされていません。

一般的住居焼却跡の観察結果記載は、この報告書では焼土層が存在するという記述になります。

また、焼土粒子が包含されるピット2とピット3は鍛冶遺構そのものではないだろうかと考えます。

住居中心に近いピット3が鞴羽口を使って高温を得る炉本体、周溝に近いピット4は炉から取り除いた灰を一時的に貯める穴と考えることができます。

A133竪穴住居の2つの鍛冶関連と想定するピット



2016年10月23日日曜日

上谷遺跡 鉄滓が出土している燈明皿多出土坑

2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」で強い興味をもったD268土坑から鉄滓が出土していますので検討します。

1 D268土坑の位置

D268土坑の位置

2 D268土坑の出土遺物

D268土坑出土遺物

3 鉄滓出土の解釈(想像)

発掘調査報告書における鉄滓出土の記載は次の通りで、遺物観察表の記載や図示等はありません。

「この他に鉄滓も出土している。」


2016.09.22記事「上谷遺跡 カヤ実貯蔵用土坑」では次のような検討(想像)を行いました。

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遺物に燈明皿転用坏が3つ含まれ、さらに「破換面」が摩滅している坏(片)が7点出土しています。

摩滅している土器片ということですから、土器片として長期間使い込まれてきていることを示しています。

摩滅している土器片とは燈明皿として使っていた可能性を考えることができます。

これらの出土物から次のような土坑の歴史と廃絶時状況を推察します。

●D268土坑はカヤ実の果肉除去機能装置として利用された。

●カヤ実から採れる油は燈明皿を使って夜間照明に使われた。

●土坑内環境の悪化をリセットするために坑内焼却などが行われた。(焼土の存在)

●土坑は繰り返し利用され、堆積物で浅くなった。(下層、中層の存在)

●土坑が浅くなって使えなくなったとき、廃絶の儀式が行われ、使っていた燈明皿をもちより、感謝の念を込めて土坑に投げ込み埋めた。
……………………………………………………………………

この検討と鉄滓出土を結びつけると次のような状況を想定できます。

●D268土坑は夜間照明用油生産に関連した施設であった。

●生産した油は転用燈明皿を使って夜間照明につかった。

●鍛冶施設でも夜間照明により生産の促進が行われていた。

●D268土坑廃絶の祭祀の際、鍛冶施設で使った転用燈明皿と鉄滓をお供えの品、捧げ物として土坑の底に置いた、埋めた、投げた。

D268土坑から出土した鉄滓は「偶然近くにあった鉄滓が土坑に流れ込んだ」という無意味さを前面に出した想定ではなく、「祭祀の捧げ物として入れられた」という有意味さを全面に出した想定をすべきものと考えます。


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度々引用させていただいている次の復元図もよく見ると、「照明」が当たっているように見えます。

参考 古代の鍛冶工房復元図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

どう見ても、この復元図は夜間作業であり、日中の太陽光を入口から採り入れた状況ではありません。

燈明皿にカヤ実から精製した油を燃やして照明とし、鍛冶作業に精を出した古代人の姿の想像が私の頭の中でよりリアルになりました。

2016年10月22日土曜日

上谷遺跡 鞴羽口出土竪穴住居(遺物多出土遺構)

上谷遺跡の鍛冶関連遺物出土遺構の検討(学習)を継続しています。

この記事では遺物多出土遺構であるA233竪穴住居について検討します。

1 A233竪穴住居の位置

A233竪穴住居の位置

A233竪穴住居はこの遺跡の「西」側の掘立柱建物群の中央部付近に位置しています。

2 A233竪穴住居の特徴と出土物

A233竪穴住居は竈の改替を行っています。

A233

A233竪穴住居は建物の主要施設の竈の改替を行っている、つまり建物の改築を行っているのですから、その情報から、この住居に居住していた家族は集落の中で裕福であり、恐らく支配層、リーダー層に位置する家族であったと想像します。

A233竪穴住居からの出土物は極めて多く、墨書土器も多数出土しています。

A233

A233

A233

A233竪穴住居の住人が集落の支配層、リーダー層クラスであったという想定と、A233竪穴住居廃絶後にその遺構を覆った堆積層(覆土層)に多数の遺物が含まれていることは強く関連する事象として捉えることができると考えます。

つまり、A233竪穴住居の住人が集落の中で重要な役割を果たした人物であることから、その人物が死亡して家長が途絶えてその住居を廃絶した後、その住居跡空間(窪地)がその人物やその人物が果たした機能を弔い、あるいは感謝するなどの祭祀の場になったと想定します。

A233竪穴住居廃絶後、その空間を通じて思い起こすことができることを共通心理として人々の祭祀が行われたと想定します。

その祭祀の際に、お供え物として各種鉄器や墨書土器が置かれた、埋められた、投げられたのだと思います。

「西」と墨書された土器の文字「西」が残るように土器を割って、それを供えた(置いた、埋めた、投げた)祭祀が行われたと考えます 。

ですから、文字「西」を共有する集団と関わる人物、恐らく「西」集団のリーダー格の人物がA233竪穴住居の家長であったと考えます。

このような状況の中で、鞴羽口出土を考える必要があります。

3 鞴羽口出土状況と解釈(想像)

鞴羽口の記載は次のようになっています。

長(76)×径-×厚32、依存度が小さく、内径は復元できず、淡褐色、普、砂質、断片

鞴羽口

鞴羽口の出土層位は床面あるいは床面に近接する覆土層のように読み取ることができます。

鞴羽口の出土位置

2の考察を踏まえ、A233鞴羽口出土を次のように解釈(想像)します。

・A233竪穴住居には墨書文字「西」を共有する生業集団のリーダー格人物が住んでいた。

・そのリーダー格人物が死んで家長が途絶えたため、住居を廃絶(取り壊し)した。

・住居廃絶空間はすぐに覆土して平地利用空間に戻すのではなく、穴として残して祭祀的空間として一定期間利用できるようにした。

・住居廃絶時に鞴羽口破片が床面に置かれた。あるいは廃絶後の祭祀の際に鞴羽口破片が置かれた。

・鞴羽口破片が置かれたのは、A233に住んでいた「西」集団リーダー格人物が鍛冶業務にも何らかの形で関わっていたからであると想像します。

・出土物に鉄製品が多いことと鞴羽口出土が関連していると捉えると、「西」集団の各種鉄製品の補修やリサイクルを行う鍛冶業務を、この死んだリーダー格人物が統括、支配していたと想定できます。

・出土鉄製品には刀子、鏃が多いことから、死んだリーダー格人物は治安や防衛にも関わっていたと考えることができます。従ってその格(位)はかなり上であったと考えることができます。

なお、覆土層の各細層記述には各所に焼土粒混入が含まれています。

この記述からA133竪穴住居跡(穴)で行われた祭祀では火が使われた可能性が濃厚です。

また、打ち欠きして「西」がよく見えるようにした土器片や鉄製品等を供えた祭祀は、死んだリーダー格人物の記憶が人々に残っている期間、繰り返しておこなわれたと考えます。

現代の1回忌、3回忌、7回忌、13回忌みたいな心性で、A133竪穴住居跡(穴)空間が祭祀の場になったと空想します。

なお、墓ではない家跡という空間が祭祀の場になっていたという自分の仮説に、自分自身が大いに興味を持っています。

空間(場所)に対して、共通の記憶をたよりにして、人々が強い意味を与える事象として興味を抱きます。

リーダー格でない一般住民が居住した竪穴住居を廃絶する場合、その場所を生活空間として別利用するために即座に埋め立てする場合もあったと考えます。

2016.09.12記事「上谷遺跡 一気埋戻し竪穴住居が馬歩行空間を示す」参照


2016年10月21日金曜日

上谷遺跡 鉄滓出土遺構

上谷遺跡の鍛冶関連出土物と鍛冶遺構について検討しています。

この記事では鉄滓出土遺構(A135竪穴住居)について検討します。

1 A135竪穴住居の位置

A135竪穴住居の位置

2 鉄滓の出土状況と解釈(想像)

A135竪穴住居の覆土層から鉄滓が出土しています。

鉄滓の記載(画像は未掲載)

長さ37×幅54×厚さ37 重量124.8g 赤褐色 砂粒含

A135竪穴住居は廃絶後に不用材の焼却を行った遺構で床面直上層には多量の炭化材が検出されていますが、鍛冶等を示すピットなどはなく、鍛冶遺構ではありません。

A135

住居廃絶後、住居を燃やして家長(一家)を弔う祭祀があり、その後の消火用投土の中に鉄滓を入れて、残された人が死んだ家長(一家)に対する思いを表現したのだと思います。

死んだ人が何らかの形で鍛冶に関係していた可能性が濃厚だとおもいます。

家長や一家が絶えて廃絶した住居を燃やして弔った空間は墓ではありません。

しかし、焼却祭祀を行った人々は竪穴住居跡という空間に対して特別の思いがあり、その場所に様々な供養の品を置いた、埋めた、投げたという風習があったと想像します。

有用なものが壊れて廃棄せざるを得なくなったとき、その大切であった壊れた物を焼却祭祀を行った竪穴住居跡のお供え物にしたという風習もあったのではないかと想像します。

竪穴住居跡から出土する遺物の多くはこのように解釈すると、単に「流れ込んだ」とか「ゴミ捨て場からの出土物」と考えるより合理的であるように考えます。遺物から読み取れる情報が格段に増大すると思います。

A135竪穴住居出土鉄滓は遺構中央部の覆土層下部からの出土であり、意識的に持ち込まれたと考えて間違いないと思います。

消火用投土の際、「偶然に鉄滓が紛れ込んだ」、「しかも空間中央部に紛れ込んだ」と考えることはできないと思います。

なお、A135竪穴住居からの遺物は「本地区の住居跡としては、比較的多い遺物の出土であった。」と記述されていて、墨痕のある土師器皿をはじめ全部で9点の土師器、1点の支脚、1点の鉄滓が遺物観察表に掲載されています。

A135竪穴住居出土物 

2016年10月17日月曜日

世界の風景を楽しむブログの開設

この度、ブログ「世界の風景を楽しむ」を開設しましたので報告します。

ブログ「世界の風景を楽しむ」画面

旅行先で遭遇した魅力的な風景、ストックしたEarth View from Google Earthの画像うち魅力的なもの、Google earth proで見つけた魅力的な場面などを中心に、関連情報を含めて紹介します。

ブログ「世界の風景を楽しむ」をよろしくお願いします。



私のメインブログは「花見川流域を歩く」ですが、自分の興味や問題意識毎に順次ブログを独立させてきて、現在は次のファミリーブログがあります。

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学習 幸福否定


2016年10月16日日曜日

上谷遺跡 鉄付鞴羽口片出土竪穴住居に関する検討

上谷遺跡の鍛冶関連遺物出土竪穴住居の検討を続けています。

この記事ではA164竪穴住居、A170竪穴住居、D203土坑について検討します。

1 A164竪穴住居、A170竪穴住居、D203土坑の位置

A164竪穴住居、A170竪穴住居、D203土坑の位置

3つの遺構は30mずつ離れていますが、隣接していると捉えてもよいと思います。

2 A164竪穴住居の特徴

● 硬化面、焼土、不明ピットの存在

床面に硬化面が存在し、焼土及び不明ピットが存在する。

A164(1)

● 人面墨書土器の出土

出土する遺物は、全体的に少ない竪穴住居跡であるが、長文を伴う「人面墨書土器」が覆土層から出土している。

刀子も出土します。

A164(2)

● 鉄付鞴羽口片の出土

鉄付鞴羽口先端部が出土する。

● 発掘調査報告所の所見

本住居跡は自然堆積の埋没後、掘り返され、その穿たれた坑で焼却行為が行われた遺構と捉えた。

炭化材が殆ど検出されていないので、他の類例の竪穴住居跡と異なるものであるが、焼却と投入土による消火行為、その後の再度の自然堆積と覆土は複雑な堆積状況を示していた。

上谷2地区とやや異なり、本地区では焼却行為の後に人為堆積によって埋没させる遺構が少ないことを指摘しておきたい。 

3 A164竪穴住居の検討(想像を交えた学習)

発掘調査報告書の所見通りこの竪穴住居は鍛冶遺構ではありませんから、鉄付鞴羽口片は外部から持ち込まれたものになります。

鉄付鞴羽口は覆土層の中層から出土しています。

発掘調査報告書のA164竪穴住居の焼土の層位に関する記載を詳しく読んでみました。

……………………………………………………………………
発掘調査報告書の記載

竈前から住居跡中を経て南東壁脇にかけて、黒色土に焼土が混合した範囲が捉えられた。

その範囲は覆土5層中であり、床から10cmほど高い位置であった。炭化材は検出されなかった。

発掘調査報告書の掲載図

(印刷で薄く網がかかっている部分を赤表示…焼土分布を示すと考える。)

掲載図抜き書き、塗色

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焼土は発掘調査報告書の所見どおり、掘り返して後焼却行為によることが確認できます。

この焼却行為は覆土を一部掘り返してそこで行うという大変意識的活動ですから、特徴的な意味があるに違いありません。

一種の祭祀行為が行われたと考えます。

A164竪穴住居で、廃絶後に焼却行為という一種の祭祀行為があり、人面墨書土器が出土し、さらに鉄付き鞴羽口が出土するということに関連性があるかもしれないと考えます。

こられの出土物等から、A164竪穴住居が廃絶する前の住人が集落の中で果たしていた機能が大きかったことを想像します。


4 A170竪穴住居の検討

A170竪穴住居から鉄滓が出土します。

A170竪穴住居は鍛冶遺構ではありません。

鉄滓はどこからか持ち込まれたものです。

5 D203土坑の検討

D203土坑から鞴羽口片が出土します。

D203土坑も鍛冶遺構ではありません。

6 全体考察

30mずつしか離れていないA164竪穴住居、A170竪穴住居、D203土坑から鞴羽口、鉄滓が出土していますから、この近くに鍛冶遺構が存在する可能性を否定できません。






2016年10月15日土曜日

上谷遺跡 鞴羽口破片を一種の威信財と考える

上谷遺跡における鍛冶関連遺物出土竪穴住居の検討を続けます。

この記事ではA150竪穴住居について検討します。

1 A150竪穴住居の位置

A150竪穴住居の位置

A150竪穴住居は漆工房地帯の近くに所在します。

2 A150竪穴住居の特徴

発掘調査報告書からA150竪穴住居の特徴を列挙します。

●遺物が多い

本地区(発掘3区)の竪穴住居跡としては、比較的に出土遺物が多い遺構である。

A150

●鞴羽口破片の出土

鞴羽口破片は床面から出土している。

3 検討(想像を交えた学習)

A150竪穴住居には鍛冶ピットが存在していませんから、この竪穴住居は鍛冶遺構ではありません。

しかし、鞴羽口が覆土層からではなく床面出土であることから、この竪穴住居住人が鍛冶に関わっていたことを強く推すことができると考えます。

千葉県が想定している古代鍛冶のイメージ図には3人の鍛冶職人が描かれています。

参考 古代の鍛冶工房復元図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

このイメージ図の竪穴住居にこの3人とその家族が一緒に住んでいたということは、その狭さ、熱や音という環境等から考え難いことです。

1家族は住んでいたと考えますが、関係する職人家族の竪穴住居が別に2つあったに違いありません。

つまり、自分が住んでいる竪穴住居とは別の場所にある鍛冶工房に出かけて働いていた鍛冶職人がいるということです。

A150竪穴住居はそのような別の竪穴住居にある鍛冶工房に出かけて働いていた鍛冶職人の住居であったと考えます。

そのように考えると、A150竪穴住居の床面から鞴羽口破片が出土したことが自然な出来事であり、合理的に解釈できる事象として把握することができます。

鍛冶工房で働く職人が、壊れて捨てるしかない鞴羽口破片を自宅に持ち帰り、一種の自慢の物、記念の物として置いておくという心性は理解できます。

鍛冶は誰でもできるようなものではなく、高度な最先端技術です。

ですから、最先端技術の象徴である鞴羽口破片を所持することは、所持する人の価値を高めることに大いに役立ったと考えます。

鞴羽口破片は一種の威信財であったと考えます。

スポーツ選手の金メダル、研究者の学位証書や受賞記念物、技術者の資格証、公務経験者の勲章などの機能を古代社会における鞴羽口破片は果たしていたと考えます。

A150竪穴住居の住人が鍛冶職人であると考えますが、「職人」といっても現代社会の「職人」は社会ランクが低くみられがちですが、古代の鍛冶は最先端技術ですから、社会ランクは高いところに位置し、支配層クラスであった可能性が高いと考えます。

そのため、A150竪穴住居の覆土層から墨書土器「西」を含む多数の遺物が出土しているのだと考えます。

覆土層中の遺物は単に廃絶住居跡穴に廃棄物として捨てられたゴミではなく、廃絶後にその故人やその竪穴住居(場所)が果たした機能を弔い、あるいは感謝して行われた一種の祭祀によって置かれた(投げ込まれた、埋められた)お供え物であると考えます。

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【重要 予報】

まだ全部を調査していませんが、鍛冶遺物の出土は無いけれど鍛冶ピットと考えられるものが出土する竪穴住居をA150竪穴住居の北方向50mほどのところに「発見」しました。

鍛冶ピットと考えられるものが出土する遺構について、上谷遺跡全体を調査してから記事にします。

2016年10月11日火曜日

上谷遺跡 略完形鞴羽口出土竪穴住居の検討

鍛冶関連遺物出土竪穴住居の検討を行っています。

この記事ではA124a竪穴住居について検討します。

1 A124a竪穴住居の位置

A124a竪穴住居の位置

掘立柱建物群から少し西に離れた場所にA124a竪穴住居は立地します。

また竪穴住居も密集している場所ではありません。

2 A124a竪穴住居の特徴

次にA124a竪穴住居の特徴を列挙します。(発掘調査報告書から引用)

●A124aとA124bの重複

本住居跡はA124bと重複する遺構であるが、覆土の堆積状況より、本住居跡がA124bより新しい遺構と捉えられた。

A124a・b


A124a

●人面墨書土器や鉄器が出土する

人面墨書土器や「竹」「得」などの墨書土器が出土します。また鉄器4点(鏃、刀子、鎌、壜状金具)が出土しています。

小型甕の人面墨書土器

●略完形の鞴羽口の出土

口径7.00×7.20×長さ(15.7) 外面成形後ていねいなヘラミガキ。褐(色調)、砂粒白色(粘土)。

A124a竪穴住居 鞴羽口


3 検討(想像を交えた学習)

3-1 鞴羽口出土の意味

発掘調査報告書掲載図を拡大すると次のようになり、鞴羽口出土は覆土層の下層からであることがわかります。

A124a竪穴住居 鞴羽口出土位置

この竪穴住居には鍛冶ピットが存在しないので、この竪穴住居は鍛冶遺構ではないと考えます。

鞴羽口は外部から持ち込まれたものです。

覆土層の下部から出土しているので、住居が廃絶する前に持ち込まれた可能性も全くゼロではないと考えますが、基本は住居廃絶後に持ち込まれたものと考えます。

覆土層中には人面墨書土器や鉄器4点も出土しているので、それらを勘案すると、次のようなストーリーを一例として想定できると考えます。

●A124a竪穴住居から鞴羽口が出土したことの一解釈

A124a竪穴住居は古い住居から一度立て替えています。

ボロ屋にずっと住んでいたのではなく、立て替え新築したことがあったのですから、この住居に住んでいた家族は家系が継続し、かつ裕福であったことが推定できます。

つまり集落の指導層的立場にあった家族であると考えてもよいと思います。

そのような由緒ある一家の家長が死に、家を廃絶したとき、その指導者を弔い、あるいはその住居(場所)が果たした機能に感謝して、住居跡の穴に二つに割れた(合わせれば略完形になる)鞴羽口や人面墨書土器、鉄器をお供えしたのだと思います。

一種の祭祀が行われたのだと考えます。

お供えされたものに鞴羽口と鉄器があるので、A124aの住人やその場所が何らかの形で鍛冶に関わっていたのかもしれません。

(例、鍛冶技術者を配下にしていた統領であるとか、鍛冶に必要な炭の生産に関わるとか、原料となる屑鉄の入手に関わるとか・・・)

また、人面墨書土器を書ける人は教養と権力を有する者であったと考えます。

その人面墨書土器をこの場で弔いあるいは感謝の祭祀に使ったと考えると、A124a竪穴住居に住んでいた住人も社会的地位が高かったことを確認できます。


3-2 鍛冶遺物が必ずしも出土しない鍛冶遺構が上谷遺跡に存在する可能性

2016.10.10記事「上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討」で検討したA102a竪穴住居は鍛冶遺構であると考えますが、A124a竪穴住居鍛冶遺構ではありません。

鍛冶遺物出土遺構には鍛冶遺構と非鍛冶遺構があるということが、遅まきながらわかりました。

同時に、鍛冶遺物(鞴羽口や鉄滓)が出土しない遺構の中に鍛冶遺構があるということも推察できました。

鞴羽口や鉄滓は出土しないけれど、焼けたピット等が残っている鍛冶遺構を上谷遺跡で探します。

2016年10月10日月曜日

上谷遺跡 鞴羽口出土A102a竪穴住居の検討

鞴羽口や鉄滓が出土した遺構について、発掘調査報告書の記載を詳しく検討し、想像も交えて学習します。

この記事ではA102a竪穴住居について検討します。

1 A102a竪穴住居の位置

A102a竪穴住居の位置

墨書文字「得」が多出する集団と関わる掘立柱建物群の近く(入口?)にA102a竪穴住居は存在します。

その位置からA102a竪穴住居は集団の中で重要な機能を有していたと考えても不合理なことはありません。


2 A102a竪穴住居の特徴

次にA102a竪穴住居の特徴を列挙します。(発掘調査報告書から引用、表は作成。)

● A102aとA102bの重複

A102a竪穴住居はA102b竪穴住居と重複している。

A102aが新しい遺構、A102bは現状からみた推定規模は大きくなるが、堀込が浅く、床面も捉えきれなかった遺構である。A102aとの重複関係や規模等から竪穴住居跡としてが、竪穴状遺構と捉えた方がよいかもしれない。

● 規模のやや大きな竪穴住居

A102aは長軸5.62m×短軸5.57m×壁高0.83m、主軸方向はN-75°-Eを示す。竈を再構築している。

● 炉状ピットの検出

住居跡中央に炉のような浅いピットが検出されているが、住居廃絶後の燃焼行為の結果ではないと覆土から捉えられ、本住居跡に伴う炉状のピットであった。

ピット覆土は、焼土を混入した褐色土が1~5cmの厚さで堆積していた。

貼床を剥がしたような凹凸のあるハードローム面を坑底として、火床範囲と捉えたものも赤味を帯びる程度であった。

調査では、本ピットに係るような付帯遺構は検出できなかった。

覆土は基本的には自然堆積であり、色調や包含物により分層した。

A102a・b


● 極めて多数の遺物出土

A102aの出土遺物は極めて多く破片数は3000点を超えるものであったが、A102bの遺物の出土は少なかった。

3000点を超える遺物点数のため、全体的な平面及び垂直分布状況も、全域から出土しているものとなっている。

しかし、掲載した遺物は床面出土よりも覆土中層の遺物が多く、自然堆積によって住居跡が埋没する過程で、遺物の廃棄が行われたことを示している。

A102a・A102b出土遺物分布図

A102a・A102b出土遺物 1

A102a・A102b出土遺物 2

A102a・A102b出土遺物 3

● 墨書土器の出土が多い

特に墨書土器の出土が多く、87点に及んでいる。

記された文字は「得」が最も多く、31点が出土している。

また、「万」「大万」「仁」等も出土しており、Ⅱ地区の特徴的な文字の両者を出土する竪穴住居跡である。

A102a竪穴住居 墨書土器

● 鉄器出土が多い

この他には鉄器の出土も多く、鉄鏃3点、刀子3点、紡錘車2点等の12点を数える。

紡錘車は石製も出土している。

A102a竪穴住居 遺物観察表の集計

● 鞴羽口の出土

鞴の羽口片も出土しており、本住居跡ではその明瞭な形跡は認められなかったが、上谷遺跡における小鍛冶生産を想定できる資料といえよう。

A102a竪穴住居 鞴羽口

現存高(4.80)、内面 高温のため灰色化、羽口部分。



3 検討(想像を交えた学習)

3-1 炉状ピットの意義

竪穴住居の中にその住居に由来する炉状ピットがあるのですから、それが小鍛冶施設であったと考えることが合理的です。

ただし簡易な小鍛冶であり、炉の構造が残らなかったのだと考えます。

参考 古代の鍛冶工房復元図
「千葉県の歴史 資料編考古4(遺跡・遺構・遺物)」(千葉県発行)から引用

炉状ピットは既成鉄製品の修理やリサイクルなどのための簡易な鍛冶跡と考えます。


3-2 鞴羽口出土の意味

発掘調査報告書掲載図を拡大すると次のようになり、鞴羽口出土は覆土層の中層からであることがわかります。

A102a竪穴住居 鞴羽口出土位置

覆土層の中層から出土した鞴羽口片はこの竪穴住居で使われたものではない可能性が高いと考えます。

この住居で使われ鞴羽口が一度住居外に持ち出され、後に再度持ち込まれたと考えることの可能性もゼロではないと思いますが、その可能性は低いと考えます。

小鍛冶が行われた竪穴住居の覆土層に、別の場所で使われた鞴羽口が持ち込まれたということになります。

それは全くの偶然ということではなく、一定の必然性があると考えられますの、その考えを次にメモしておきます。

●メモ1 小鍛冶技術者(=集団指導者)に対する弔い

小鍛冶が行われていて廃絶したA102a竪穴住居は比較的大きな竪穴住居であり、また掘立柱建物群の入り口付近という集団拠点の要衝に位置しています。

このことから、A102a竪穴住居住人は集団の指導層に属していたと想定できます。

従って、小鍛冶という集団にとって重要な技術を有し、かつ指導者であるものが死亡して、その住居が廃絶したとき、集団住民がその廃絶した住居を、そこは決して墓ではありませんが、一種の弔いの場として、小鍛冶に関連する物品を供えたと考えます。

現代でも人が死ぬと1周忌、3回忌、7回忌などがありますが、同じような心性で、墓ではないが、過去に小鍛冶という重要な機能を担った人に感謝し、弔う気持ちから、お参り(祭祀)があり、その時関連する物が置かれたと考えます。

その時鞴羽口破片が供えられた(置かれた)と考えます。

●メモ2 A102a竪穴住居空間(場所)が過去に有した小鍛冶という有用機能に対する感謝の念

A102a竪穴住居で小鍛冶が行われ集団にとって大変有用な機能を有していた時期があり、その有用な機能が廃絶したとき、その空間の有用であった機能に感謝する気持ちから、小鍛冶に関連する物品を供えた、置いた、埋めたと考えます。

別の場所の小鍛冶で鞴羽口が壊れた時、その破片をわざわざA102a竪穴住居跡の穴にお供え物として持ってきたというようなことも想定します。

メモ1とメモ2は類似していますから通底していることは確かです。

私は、墓ではない場所に祭祀的なことが感じられるので、メモ2が大切な視点であり、その視点は現代社会ではほとんど失われていると考えます。

空間(場所)そのものに対する「思い」を古代人は持っていて、現代人はその感覚がすっかり退化していると考えます。

メモ2の視点に立脚すると多くの遺構・遺物の意味が解読できるような気がしています。


3-3 鉄器多数出土の意味

鞴羽口出土と同じ意味であると考えます。

つまり小鍛冶技術者(=集団指導者)に対する弔い、あるいはその場所の過去の小鍛冶機能に対する感謝の念からだと考えます。

恐らく、壊れたあるいは不用になった鉄器をその場にお供えした(あるいは埋めた)弔いや感謝の祭祀があったのだと思います。

3-4 墨書土器多数出土の意味

鞴羽口出土や鉄器多数出土の意味と共通すると思います。

鞴羽口や鉄器をお供えする祭祀の際に、集団のエンブレムとなっている文字「得」が墨書された土器を持ちより、酒宴をおこない、最後にそれを打ち欠いてその場に供えた(埋めた、投げた)のだと思います。




2016年10月9日日曜日

上谷遺跡 鍛冶関連出土物

上谷遺跡の鍛冶関連出土物を遺構別にまとめてみました。

上谷遺跡 鞴羽口、鉄滓出土遺構

鞴羽口が6遺構から6点出土していて、そのうち2点は鉄が付着しています。

また鉄滓が2遺構から2点出土しています。

これらの出土物から上谷遺跡で鍛冶業務が行われていたことがわかります。

次の記事で各遺構の鍛冶関連遺物の出土状況について検討します。