私の散歩論

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2016年11月1日火曜日

上谷遺跡 多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相

上谷遺跡を検討している最中の感想です。

上谷遺跡の竪穴住居には、覆土層の最下部に焼土層があり、床面に焼けた木材が直接載っているものが多数あります。

発掘調査報告書ではこれらの遺構について「不用材を焼却した」という記述で統一記載されています。

「不用材の焼却」は存在せず、廃絶後ただちに埋められと考えられる竪穴住居も多数あります。

ですから、「不用材の焼却」は必ず行われる住居廃絶時イベントでないことははっきりしています。

なにか理由があって「不用材の焼却」をしたものと考えます。

「不用材の焼却」はその現場写真が掲載されていないので、もちろん発掘現場も見ていないので、自分としてはなんで「不用材」と呼んでいるのか、確実なことは言えません。

しかし、竪穴住居が廃絶して直後の焼却ですから、もともとその場所に建てられていた住居そのものか、その一部の建材であると推察できます。

ここで疑問1が生じます。

発掘調査報告書では何故「不用材」を燃やしたと判断できたのでしょうか?

1 住居そのもの(全体)が不用になって廃絶したのだから、そこの住居の部材は「不用」になったのだから、「不用材」と呼んだ。

2 「不用」と判断できるような証拠が現場にあり(それは発掘調査報告書には当たり前すぎて記述されていないが)、有用←→不用の対比における不用の意味で「不用材」と判断している。

例1 有用と考えられるような太い部材は明らかに持ち出されていて、燃やされたのが転用部材にできないような細い部材などであることが明白である。

例2 住居部材ではない燃料用薪に類するような木材が持ち込まれ燃やされている。

次いで疑問2が生じます。

発掘調査報告書では「不用材」を燃やしたと記述していますが、この焼却はごみ処理をしたという想定を発掘者がしたことになります。

竪穴住居廃絶の時、ごみ処理の焼却が必要なら、ほとんど全ての竪穴住居に「不用材焼却」跡があってもよさそうなものですが、「不用材焼却」跡は限られています。

祭祀として木材(おそらく住居そのもの)を燃やしたという可能性がなぜ論じられないのか、疑問です。

材木を別の用途に転用することは奈良時代にあっては一般的であり、おそらく古代社会では「不用材」などは存在しなかったと考えます。

古代社会とは、一旦製材された木材は次々に使えなくなるまで転用されたリサイクル社会であったと考えます。

そのリサイクル社会で有用物の木材を燃料としてではなく、焚火のように気前よく燃やして消費すのですから、理由があるはずです。

その理由とは祭祀にかかわるものだと思われてしかたがありません。

もがりなどがあり、焼却は葬送と関係するのかもしれません。


疑問1と疑問2から上谷遺跡の多数の「不用材焼却竪穴住居」の真相を検討していきたいと思います。

覆土層最下部の「不用材焼却」層の意味が本当にごみ処理なのか、祭祀の結果であるのか判明させることの意義は大きなものがあると考えます。

その意味が判明すれば、覆土層の中部とか上部に存在する焼土層の意味解明にもつながります。

覆土層中部とか上部に存在する焼土層とその周辺から、多量の墨書土器、鉄器などの遺物が出土することがかなりあります。貝層が出土することもあります。

これらの焼土と遺物がごみ処理跡なのか、祭祀跡なのか、「不用材焼却」跡の意義がわかればそれに連動してわかる可能性が高まります。


これまで、発掘調査報告書全6冊を何度も(奈良平安時代編だけですが)読み直してきて、ごみ処理としての焼却か、それとも祭祀としての焼却かは発掘情報を子細に検討すれば、さらに一定の統計処理をすれば、識別できるに違いないという感触を、素人考えですが、持ち始めています。

発掘調査報告書には出土物や覆土層別などの微細情報が平面的、断面的に満載されていて、それらの分析はおそらくだれも行っていないので、その価値をまだだれも知りません。

多量の炭化材が床面上から出土した「不用材焼却」竪穴住居の記載例 A135竪穴住居

平面図中央付近アミが焼土層 この住居の消火用覆土から鉄滓が出土している。

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