大膳野南貝塚の学習を始めるに当たって、その位置と周辺地形概要を把握しました。
Google earth proで大膳野南貝塚付近を見ると土地開発が進んでいて地形の様子がわかりません。
Google earth pro画像
そこで、地理院地図サイトで周辺地形を3D表示してみました。
地理院地図3D表示
案の定、土地開発で台地地形が著しく平滑化している現状の地形が判るばかりで、開発前の地形を想像できるような状況でないことがわかりました。
発掘調査報告書を見ると迅速図に遺跡位置をプロットした地図がありますので、これで地形の概要が判ります。
周辺の縄文時代貝塚 「千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書第Ⅰ分冊-本文編1-」から引用塗色
この図では海との関係がよくわからないので、1948年撮影米軍空中写真を実体視して地形概要を把握しました。
米軍空中写真 裸眼実体視資料
まだ発掘調査報告書は全く読んでいません。
また大膳野南貝塚に関する予備知識は完全にゼロです。
そうした白紙状態で大膳野南貝塚の位置と周辺地形を見ると、貝塚を造ったころの縄文人の食い扶持(生業)は「海に偏って依拠している状況は無い」という強い印象を受けます。
貝塚だから海のそばで専業的に海の幸を採っていたと、何となく想定していたのですが、そのような先入観は完全に打ち砕かれました。
台地における動物狩猟等の活動を効率的にできる場所でなおかつ海の幸利用も可能な場所を探し、その解答として大膳野南貝塚の位置を得て、その場所で定住的生活をしたという印象を強く受けます。
地形を実体視した現時点における総合感想としては、海の幸利用よりも台地における動物狩猟の方がメインであったという印象さえ持ちます。
海岸海域利用の縄張り(漁業権区域)だけでなく、動物狩猟の縄張り(狩猟権区域)もあり、その双方を維持するための場所が大膳野南貝塚付近であったということです。
台地平坦面が広がる土地と、開析がすすみ台地平坦面がほとんどなくなった丘陵的地形の境が縄文人にとって意味があるということです。
そのような地形変換線に陣取れば、台地平面における動物狩猟権も、海岸における漁業権も押さえることができるということです。
このように考えると、動物狩猟が台地平面が広がる土地で行われていたことが逆に判明します。
旧石器時代から引き続き縄文時代でも、台地平面が広がった場所でシカなどの動物群を台地縁の崖に追い詰め、追い落として狩猟していたと想定します。
さらに、海岸の近くに陣取らなくても海岸利用の縄張りを確保できるのですから、漁業に特化した集団がいなかったと想定することもでます。
学習を始めるに当たって、狩猟と漁撈のバランスがどうであったのかという最初の興味、問題意識を早速得ることができました。
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