私の散歩論

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2016年12月26日月曜日

大膳野南貝塚周辺の貝塚・縄文遺跡

大膳野南貝塚学習を始める前のウォーミングアップをしています。

この記事では大膳野南貝塚周辺の貝塚・縄文遺跡分布を見てみます。

次の分布図は千葉県教育委員会WEBサイトの「ふさの国文化財ナビゲーション」からダウンロードした情報をGISにプロットしたものです。

大膳野南貝塚付近の貝塚分布

参考に大膳野南貝塚を中心にした2㎞圏、4㎞圏、8㎞圏の同心円を描いてあります。

貝塚の分布は縄文海進最盛期海面(空色表示、標高8m等高線以下区域を想定)付近にも分布しますが、数的には内陸の谷津付近に多くなっています。

大膳野南貝塚は海面から約2.5㎞離れた谷津谷頭付近に位置しています。

海岸近くに貝塚をつくるのではなく、内陸谷津沿い台地に貝塚をつくる理由は、縄文人は元来狩猟民であり、漁撈の民ではなかったからだと考えます。

旧石器時代から行われてきた台地面におけるシカ等の狩猟を行ってきた人々が、縄文海進という新たに生じた条件を最大限生かして、海の幸を獲るようになり、その双方の猟・漁のバランスをとった居住場所が海岸からあまり離れていない、しかし内陸台地に位置する谷津沿いの空間であったと考えます。

谷津沿い空間は水場がありますから、定住をするうえで有利です。

大膳野南貝塚付近の縄文遺跡

縄文遺跡の分布は貝塚分布とうって変わって、その数がとても多くなります。

貝塚ではない縄文遺跡の実態がどのようなものであるか、現在詳しいデータをもっていませんが、予察思考として、これらの遺跡は動物狩猟に関わるものであると考えます。

貝塚より貝塚ではない縄文遺跡の数が多いことから、海の幸利用より狩猟の方が食糧獲得面で大切であったと考えます。

貝塚が分布する谷津沿いに貝塚ではない縄文遺跡が多数あり、それらの遺跡は水場を利用した狩猟をメインとする縄文人の居住の場であったと考えます。

さらに特徴的なことは、貝塚が分布しない内陸台地上に多数縄文遺跡が存在することです。

内陸台地上は飲料水を獲得することが不便な場所です。

このような場所に縄文遺跡が密集するということは、この空間が動物狩猟面できわめて大切な場所であったことを物語っていると考えます。

さて、大膳野南貝塚から8㎞圏が貝塚から東に広がる台地の過半を占め、9㎞圏にすれば全部九十九里浜を臨む崖まで含むことになります。

8㎞圏とは平坦面を直線歩行すれば2時間しかかかりません、9㎞なら2時間15分です。

往復なら4時間、4時間30分です。

この時間ならその場所に出かけて4~5時間仕事をして日帰りできます。

つまり、大膳野南貝塚の縄文人は九十九里浜を臨む台地東端崖までの台地面で日帰りの仕事が完全にできていたということになります。

大膳野南貝塚に定住する縄文人の狩猟の跡が九十九里浜を臨む台地東端崖までの台地面のどこかに残されていたとしても不思議ではありません。

それどころか、台地に密集する縄文遺跡の中に大膳野南貝塚縄文人に関連する遺跡が無い方が不思議です。

2枚の分布図から予察思考を発展させることができました。

2枚の分布図から空想した縄文時代空間利用イメージを絵にしておきます。

後でそれがどの程度的確であったか、なかったのか、ふりかえりを楽しみしておきます。

予察 縄文時代空間利用イメージ 基図貝塚分布

予察 縄文時代空間利用イメージ 基図縄文遺跡分布

定住ゾーンは狩猟ゾーンと漁撈ゾーンの双方に出かけやすく、かつ水場があるので、このゾーンで縄文人は定住したと考えます。

その結果貝塚ができました。

漁撈ゾーンの基本は定住ゾーンの漁業面における出先ゾーンであると考えます。

狩猟ゾーンの基本も定住ゾーンの狩猟面における出先ゾーンであると考えます。

大膳野南貝塚の縄文人が東京湾に出かけて漁撈活動を行い、その場に作業小屋や収穫物の処理施設をつくったに違いありません。

同時に大膳野南貝塚の縄文人は九十九里浜を臨む台地崖付近まででかけシカなどの動物を狩り、その場に休息小屋や収穫物の処理施設をつくったにちがいありません。

なお、貝塚及び縄文遺跡は縄文時代の全時代の遺跡を全部プロットしていますから、ある特定時間断面ではもっと数は少なくなります。

しかし、ある時間断面でみても、大膳野南貝塚から日帰り仕事圏に多数の貝塚、遺跡があることになります。

その様子から、縄文人社会に高度な組織ができていたに違いないことが推察できます。

行政的機能が必須であり、それがどのようなものであったか興味が湧きます。

漁場の縄張り、狩猟場の縄張りなどがどのように区画され、利用されていたか興味が湧きます。





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