私の散歩論

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2017年4月4日火曜日

メモ 西根遺跡 縄文時代土器集中遺構は広域祭祀(イヨマンテ)跡か

1 大膳野南貝塚学習で打ち壊し土器出土が土器以外対象の慰霊(送り)に使われていたことに気が付く

大膳野南貝塚の学習で炉穴で見つかる打ち壊された土器、前期後葉竪穴住居で見つかる打ち壊された土器が送り(慰霊)で行われた行為の結果であることが判りました。

2017.04.03記事「大膳野南貝塚 縄文時代竪穴住居から遺物が出土する意味仮説」参照

大膳野南貝塚炉穴から出土する土器片

大膳野南貝塚炉穴から出土する土器片

大膳野南貝塚前期後葉竪穴住居から出土する土器片

大膳野南貝塚前期後葉竪穴住居から出土する土器片

土器片が土器ではない対象(炉、人)の慰霊(送り)に使われ、その使われ方が土器打ち壊し(土器破壊)であると判ったことは貴重な知識獲得になります。

破壊された土器片の出土を見て、それが「針供養」のような意味での土器供養であると反射的に考えなくて済むということは、学習において重要であると考えます。

早速、以前学習した西根遺跡の縄文時代後期土器集中遺構の新解釈が可能であると直観できましたので、その概要をメモしておき、将来の詳しい検討に備えたいと考えます。

2 西根遺跡土器集中遺構の以前の解釈

2014年における学習では西根遺跡土器集中遺構について次のような検討解釈をしていました。

西根遺跡出土土器の用途に関するブレーンストーミング

今からふりかえると、発掘調査報告書を読む前の空想とはいえ、結果として土器の意義について完全に外しています

なお、発掘調査報告書では「上記の事例を総合的に考えれば、本遺跡土器集中地点は日常的に使用された土器の置き場であると言えるであろう。炭素年代測定の成果によれば300年の期間、地点を僅かに変えながら、日常的な土器のみが残されていることは何を意味するのか具体的には不明である。現代の針供養とも一面では通じるような感を受けるが、穿った見方であろうか。」と考察しています。

この考察にたいして、2014.09.28記事「印西市西根遺跡埋蔵文化財調査報告書を学習する」で自分は「厚さ3cmの大報告書にしては意義に関する思考がほとんどゼロであり、残念です。」と感想を書いています。

3 西根遺跡土器集中遺構が広域祭祀(イヨマンテ)跡であると考える仮説メモ

メモ 西根遺跡 縄文時代後期土器集中遺構は広域祭祀(イヨマンテ)跡か

1 西根遺跡縄文時代土器集中遺構の様子
・印旛沼奥の戸神川河岸沖積地に加曽利b型土器が集中して3.14トン出土(102100破片)します。

土器出土の様子
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

・100%完形のものは見られないが、ある程度原型を有したものを置いた可能性が高く、打ち欠いたものもあります。
依存度がよいものでもわずかに欠けがみられます。注口土器・異形台付土器が欠落し、それらは日常的な性格の土器ではありません。
被熱痕がみられるものは8割に達します。炭素年代測定によれば300年間の期間の時間差が見込まれます。

・ 飾り弓が出土しています。
・ 杭が出土しています。

飾り弓と杭
「印西市西根遺跡 -県道船橋印西線埋蔵文化財調査報告書-」(平成17年3月、独立行政法人都市再生機構千葉地域支社千葉ニュータウン事業本部・財団法人千葉県文化財センター)から引用

・ 被熱した獣骨(シカ・イノシシの幼獣骨)が出土しています。

2 実用土器の最後の役割が祭祀打ち壊し用土器であるという仮説
実用土器が壊れて使い物にならなくなると、慰霊祭祀用土器(送りのための打ち壊し用土器)にその用途が変化すると仮説しています。(大膳野南貝塚学習結果)

3 2の仮説に基づく西根遺跡縄文時代土器集中遺構の解釈素案
・欠けた土器に飲食物を入れて、広域から人々が集まったと考えます。
・丸木舟を利用する者も多く、杭(杵(かし…船に積んだもやい杭)を利用する者もいたと考えます。その物証が杭出土です。
・捕えておいて育てていたシカ・イノシシの幼獣を送る祭祀(イヨマンテ)をおこない、飾り弓で獣に矢を打ち、最後に肉と霊を分離したと考えます。その物証が幼獣骨、飾り弓出土です。
・祭祀で獣の肉を食したと考えます。同時に土器に入れて持ち寄った飲食物も食したと考えます。
・獣霊の送りに際して、土器を全て壊したと考えます。(土器破壊は獣霊の送りに際して、人々が差し出した犠牲の一種であると考えます。)物証が土器集中出土です。
・戸神川における広域祭祀は300年続いたと考えます。

なお、縄文時代徒歩日帰り仕事圏が5㎞であると考えると、広域祭祀(イヨマンテ)に集まった人々もその程度の範囲から集まったと考えることが合理的です。
徒歩ではなく丸木舟を利用して印旛沼各地から集まったと考えると5㎞より距離が延びるかもしれません。

参考 西根遺跡徒歩日帰り仕事圏(5㎞圏)



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