イナウに関する付け焼刃学習の第2回目です。
梅原猛「日本の深層」のイナウに関する記述を学習しました。
20年以上前の記述で、現在の専門世界でどのように評価されているものか自分は知りませんが、自分にとってイナウの特性を直観できる素晴らしい記述です。
アイヌひいては縄文人の心性がよく理解できます。
次の記述は柳田國男がオシラサマと類似の信仰がアイヌにあるか金田一京助に聞いて、関係が無いと判断した顛末の記述の後に出てくるのものです。
「…おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、まったく同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。
バチェラーの『アイヌ英和辞典』第四版で「シランパ」というところを引くと、「地上の木(複数) v. i. To be standing on the earth, as trees. (An old word only found in stories and legends). It seems to come from shiri, "earth", an, "is", and pa a plural suffix」とある。つまりシランパとは、「木のように地上に立っていること。(物語や伝説にのみ発見される古い言葉である)」というのである。そしてその意味として、バチェラーは、"shiri"すなわち「地」、"an"すなわち「在る」、それに"pa"複数を示す接辞パが加わった「地にあるものたち」という意味だというのである。
「地にあるものたち」それは素晴らしい言葉であるように思われる。「地にあるものたち」-もちろん樹木も地にある。しかし人間も獣もすべてが、やはり「地にあるものたち」なのであろう。木はまさに、このような多くの「地にあるものたち」を代表するものなのである。私はこの世界観に感動をおぼえるのである。現在の地球物理学によれば、まず地球上に植物ができる。そしてその木が発散する酸素によって地球が囲まれ、そしてそこから動物が生まれるという。とすれば、植物は生命の母なのである。このことを予感していたかのように、アイヌ語では木のことを「シランパカムイ」といって、すべての地にあるものを代表させようとするのである。また同じ辞典で「シランパカムイ」のところを引くと、次のようにある。
「木の神・ The name given to any tree regarded as one's guardian deity and so worshipped. Such a tree may be taken as the hunter's care taker. The places where such trees grow are held very sacred.」(人間の守護神としてみなされて崇拝される、すべての木に与えられる名前である。そういう神は、猟師のお守りと考えられている。そしてその木が茂っている場所は、聖なる場所とされる)というのである。
シランパカムイはまさに木の神なのである。木の神であると同時に、それは地上にあるすべてのものを生きとし生けるものを代表する神なのであろう。
また、バチェラーと並んでアイヌ文化を深く愛し、アイヌの土地に住みアイヌ文化の研究に一生を捧げたネール・ゴルードン・マンローは、このシランパカムイを「遠い神」、すなわち天上の神にたいして、近くにいてもっとも頼りにできる神の第一等にあげているのである。マンローはそれは、"vegetation"すなわち「成長の神」であるという。そしてそのシランパカムイの魂は、人間に家や道具を提供する木の中に、特に樫の中に現存するというのである。そしてまた、それは穀物や草の中にも現存して、木を成長させ、穀物を実らせる力となるというのである。
ところがアイヌでは、動物はもちろん植物すらも人間と同じものなのである。動物も植物も、本来その魂は天の彼方のどこかにいて、そこでは人間と同じような生活をしているのである。たまたま彼らの魂は、このわれわれの住む地上にやってきた。そこで彼らは、仮に動物や植物の形をとっているにすぎない。これは驚くべき思想であるように思われる。パンティズムというよりは、パンヒューマニズムというべきかもしれない。とすれば植物は、仮に植物の姿をとった人間といえるかもしれないし、人間は、仮に人間の姿をとった植物といえるかもしれない。この考え方は、地にあるもの、すなわちすべての生きとし生けるものの一方に植物をおき、その一方に人間をおく考え方であるように思われる。そして、その原初は自らの仲間であり、自らの祖でもある植物の生命力を崇拝し、そしてその力を借りようとするのである。
このように考えると、あの白木を削って顔を描く意味は明らかであろう。それはその本来の故郷においては、人間の姿をしている木の神を示したものである。そしてアイヌのイナウもまた、白木を削って顔を描く。つまり、イナウにイナウパロ(イナウの口)、イナウシク(イナウの目)、イナウキサラ(イナウの耳)、イナウネトパ(イナウの体)、イナウケマ(イナウの足)があるという。思えばイナウは木でありながら、同時に人間であるのである。おしらさまもこのようなイナウと同じく、木でありながら人間であるという二重性をもっている。おしらさまは、あのすべての生命の基である「シランパカムイ」をあらわしたものであることは、ほぼまちがいのないように思われる。」
梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)から引用
縄文人のイナウ信仰がアイヌに引き継がれ、倭人社会には神仏習合などに隠れてオシラサマ信仰として、さらにはコケシ、おひな様、傀儡(操り人形)として残存しているという梅原猛の思考は大いに自分の学習意欲を駆り立てます。
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梅原猛「日本の深層」(集英社文庫)
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