印旛浦-手賀浦付近の縄文海進クライマックス期海面(縄文時代早期海面)をGoogle earth proをつかって鳥瞰してみました。
縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用
縄文海進海面の鳥瞰 印旛浦から手賀浦方向
Google earth proを活用
縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用
縄文海進海面の鳥瞰 手賀浦から印旛浦方向
Google earth proを活用
戸神川谷津と手賀浦から伸びる谷津が近接していて縄文時代早期にこのルートが印旛浦と手賀浦を結ぶ主要水運路であったことが判ります。
その後海面低下により縄文時代後期(加曽利B式土器期)の戸神川谷津では西根遺跡より下流にまで海面が後退(海退)しました。
この間の約3000年間の間に戸神川谷津は印旛浦と手賀浦を結ぶ陸路(船越)として使われていたと考えます。
西根遺跡付近の縄文時代早期海面(上)と後期海面(下)
これらの図を眺めながら次の考察をしました。
●西根遺跡土器集中地点はミナト(戸神川が流入する印旛浦海面付近)から陸路手賀浦に向かう通路(あるいは手賀浦から陸路印旛浦に向かう通路)に存在します。
つまり交通する人々にその存在を主張している施設であると考えることができます。
●西根遺跡からイナウが出土していて、土器集中地点には多数のイナウが建てられていたことが想定できます。アイヌのヌササンと呼ばれるような祭壇が列状に沢山あったことが想定できます。
つまり土器集中地点の風景は地面に土器の破片が堆積しているだけでなく、谷津谷底という平坦な場所に立体的祭壇風景が存在していたと想定します。
●西根遺跡から飾り弓が出土するとともに土器集中地点の中心部から多量の獣骨が出土しています。これから、土器集中地点は獣肉食を伴うイオマンテのような祭祀の場であったことが想定できます。つまりイベントの場、お祭りの場であったのです。
●以上の想定から西根遺跡は手賀浦方面からやって来る人々と印旛浦の人々が交流を深めるための祭祀が行われた場(お祭り・イベントが行われた場)であると想定します。
●手賀浦方面からやってくる人々とは手賀浦付近居住縄文人だけでなく、縄文時代後期日本列島文化の中心であった東北や北陸の人々が含まれていたと考えます。
●土器集中地点とは現代風に考えれば神社そのものです。
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●上記鳥観図はGoogle earth proの地形情報に地図を被せて立体表示しています。ところが、Google earth proの地形情報は現代開発後の、「今の今」の地形ですから本来地形ではありません。またGoogle earth proの地形精度は良くありません。
そこで、旧版2万5千分の1地形図コンターから地形を直接的に立体モデルとして作成して、それに地図を被せれば訴求力のある画面をつくることができると考えます。
それが技術的に出来そうなので、時間が生れれば取り組みたいと考えます。
ブログ「花見川流域を歩く番外編」2017.08.06記事「古地図の立体モデル化ができそう」参照
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