白幡前遺跡が高津馬牧(延喜式)に対応し、鳴神山遺跡が大結馬牧(延喜式)に対応すると想定して、さらに上谷遺跡の牧を含めて、牧の牧場(草原)中心域を検討しました。
1 牧場(草原)中心域検討のための条件
まだ自分の知識が大いに不足していますが、とりあえず次の2つの条件から牧場(草原)中心域の想定を行います。
ア 古代牧の地形的条件として馬の水飲み場が牧場(草原)に含まれていること。
上谷遺跡の検討では台地上の浅い谷に馬の水飲み施設と想定される土坑が存在しています。
参考 上谷池水部付近の土坑
参考 墨書土器竹野に対応する野(牧)イメージ
イ 牧領域の大きさの1例として約3㎞×約1.5㎞程度が想定されること。
参考 もはらのしょう 藻原荘
平安時代,上総国にあった興福寺領の荘園。現在の千葉県茂原市域に比定される。ここはもと777年(宝亀8)上総国司となった藤原黒麻呂が領した牧で,のち原野が開田されて荘園となり,その子常陸介春継に伝領された。春継は常陸国の大目〘だいさかん〙坂上氏の女をめとって同荘に住み生涯を終えたが,その子良尚に遺言してこの地に墳墓をつくらせ,後世他人の地となって墓が踏み荒らされることがないように,同荘を興福寺に施入することを命じ,877年(元慶1)に死去した。しかし良尚もまもなく世を去り,その遺命を継いだ長子菅根らは890年(寛平2)に藻原,田代の両荘田を興福寺に施入した。この施入帳(《朝野群載》)によると,藻原荘の規模は東西1020丈(約3㎞),南北487丈(約1.5㎞)あったという。なお1160年(永暦1)ごろ,鳥羽安楽寿院領上総国橘樹〘たちばな〙社の巽(南東)角の地が藻原荘と接しており,相論になっていた事実がある。
戸田 芳実
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
2 馬牧牧場(草原)中心域の想定
上記ア、イから3遺跡対応馬牧の牧場(草原)中心域を次のように想定しました。
白幡前遺跡関連牧(高津馬牧)の牧場(草原)中心域推定
高津川上流の谷津が浅い谷になっている付近が高津馬牧の中心域であると考えます。
円の面積は約4.5平方キロメートルですが、もちろんこのような形状の牧場(草原)があったとは考えません。あくまでも牧場中心域のイメージです。
鳴神山遺跡関連牧(大結馬牧か?)の牧場(草原)中心域推定
戸神川上流の西→東に流れる浅い谷を挟んだ印西台地が主な牧場(草原)であったと考えます。
上谷遺跡関連牧の牧場(草原)中心域推定
上谷遺跡関連牧は地形特性と官牧ではないという条件から牧の範囲は4.5平方キロメートルよりはるかに狭い牧であったと考えます。
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