1 大塚前遺跡大溝を野馬堀に間違えた理由
次のような理由から大溝を野馬堀と間違えました。
ア 道路と考えた場合、塹壕のような深い溝である理由が見つからない。馬が越えることができない溝と考える方が合理的である。
イ 一般道路と考えると、木曽馬の尻幅を約40㎝とすると、この大溝内では古代馬のすれ違いが無理であるから、道路とは考えられない。
ウ 寺院前、竪穴住居前にもかかわらず溝から宅地面に上がる施設(馬が上れるスロープ)がなく、交通施設として不自然である。
エ 牧場地区の管理や堀自体の管理のために野馬堀を道路として使うことは当然だから、あるいは馬の移動(輸送)に使ったかもしれないから、堀の底面に硬化面ができる。硬化面の存在は一般道路の存在を示すものではない。
2 大塚前遺跡大溝を道路と考える理由
イ 馬のすれ違いができないことについて
鳴神山遺跡直線道路の詳細情報を発掘調査報告書から得ると、区間の一部に歩く底面が複線になっている場所があり、その場所には台地上に人間用と考えられる側道もついています。つまり特定場所だけですれ違っていて、道路の大部分が単線利用(一方向利用)であった可能性が浮かびあがりました。
鳴神山遺跡や大塚前遺跡の道路は、馬がすれ違えるいわば2車線道路ではなく、すれ違いは特定場所で行う1車線道路をイメージするのが正解だと考えられます。
この理由から、馬のすれ違いができないことが、道路ではない理由にならないことがわかりました。
鳴神山遺跡の直線道路
ウ 寺院前にも関わらず大溝から宅地面に上がる施設(スロープ)がないことについて
次の写真の穴を橋の橋脚の穴と考えましたが、木製階段施設であったとすれば、馬は上れませんが、馬から降りて人が寺院に参拝することができます。
あるいは馬の上れる階段だったかもしれません。
この理由も道路でない決定的要件にはなりません。
大塚前遺跡の大溝
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
エ 硬化面の存在について
溝底面に硬化面があることは人馬の通行があったことを示しますが、溝の管理や牧場の管理による通行だけで硬化面ができると考えるのは困難のようです。
硬化面の存在は人馬が激しく通行した証拠かもしれません。
しかし「硬化面」という言葉だけが自分の判断基準であり、その発掘現場における実体を体感的に知らないので、なんともいえません。
ア 塹壕のような深い溝について
大溝が鳴神山遺跡の道路遺構と比べて約2倍の深さがあるので、これまでどうしても感覚的に道路であることを受け付けることができませんでした。
大塚前遺跡の大溝
「千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書Ⅱ図版編」(1973、千葉県開発庁・財団法人千葉県都市公社)から引用
しかし、データとしてどうなのか、大塚前遺跡の大溝と鳴神山遺跡の道路の断面を比べてみました。
大塚前遺跡と鳴神山遺跡の道路断面 同縮尺比較
確かに大塚前遺跡の深さが鳴神山遺跡の深さの倍近くあります。同時に道路幅は大体同じです。
そして、鳴神山遺跡のデータで面白いことを発見しました。道路沿いに2間×3間の総柱掘立柱建物があり、その長軸方向が道路走行と完全に一致しています。総柱掘立柱建物は鳴神山遺跡でこれだけです。その総柱掘立柱建物近くだけ道路の深さが浅くなっているのです。
遺跡でただ一つしかない総柱掘立柱建物が道路走行と一致して道路間近にあるということはその建物が通行に関する行政(宿泊・休憩や各種旅行支援、あるいは関所など)に関わるなど、道路機能と密接に結びついた施設であると考えることが自然です。
つまりこの建物は広義の道路付属施設であると考えることができ、その場所だけ道路の深さが浅く、道路から宅地面に上りやすくなっているのです。
鳴神山遺跡のこの例から奈良時代道路の深さは、必要な場所では浅くして宅地面に上りやすくしているということです。
道路通行者が得られる便益に資するように道路の深さが変化するということです。
さて、ここまで情報を得ると、大塚前遺跡大溝の深さが深い理由が仏教寺院前で通行者に便益を与えるためにわざとその深さを深くしたことに気が付くことができました。
寺院(播寺)のメイン棟である東棟は総柱建物(3間×3間)で、屋根だけ瓦を葺く甍棟(いらかむね)建物であったと考えられています。
大塚前遺跡の甍棟復元図
「千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)」(千葉県発行)から引用寺院近くでは道路の深さをわざと深くして、道路利用者の視点の位置を宅地面より1.2m~1.3m下げ、立派な甍棟建物寺院をより迫力あるように見えるようにしたのだと推定します。
この寺は単なる民衆への布教施設ではなく、鎮護国家の観点から東北軍事進出活動に従事する人々を鼓舞する役割を持っていたのであり、寺院前を通行して東北へ向かう人々などに対して寺院建物をより迫力がありご利益があるものにしたのだと推定します。
次の例がどれだけ参考になるかどうかわかりませんが、私の散歩道にある2階建て瓦屋根の建物を通常の視点から見た場合と1.2mほど視点を下げてみた場合の例です。
道路に立って普通に撮った写真
視点位置を1.2m下げて撮った写真
視点位置を下げると、建物全体が立派に見えます。
播寺(大塚前廃寺)の風景設計と道路設計が一体のものとして行われたという、大変高度な地域開発計画が存在したということです。
鳴神山遺跡でも道路付属施設設計と道路設計が一体のものとしておこなわれ、道路利用機能の有効性が確保されたと考えます。
これまで大溝は塹壕みたいで到底道路と直観できないと考えていました。
しかし、甍棟寺院を立派に見せるために道路の深さをわざと深くしたと気が付くと、この大溝が道路であると意識の奥深くで納得することができました。
また、東北進出のために仏教寺院が果たす役割の大切さを下総国総合開発プランナー(おそらく中央政府高級官僚)が理解していたことも知ることになり、学習の興味がますます深まります。
3 検討課題
・大溝から見た甍棟建物寺院がどのようなものであるか、将来、3Dモデルやモンタージュ画像を駆使して、風景工学的に解明したいと思います。
・大溝が道路であると100%確信が持てたので、次の検討はその道路がどことどこをむすんでいるかということです。
大溝道路利用者に仏教寺院が威風堂々としているところを演出するのですから、道路利用者は遠方から東北方面に向かう人々を含んでいたに違いありません。
下総の軍勢はすべて鹿島神宮に集結して、そこから海路東北に向かったと言われています。
各地から大結馬牧を経由して香取の海に出て、そこから鹿島神宮に向かうと考えると、木島馬牧、長洲馬牧との関係がこの道路を介して検討射程に入るかもしれません。
・大塚前遺跡の道路と鳴神山遺跡の道路はその見かけの違いとは別に、その標準設計断面は同じものだと推論することができました。そして、単線利用(一方通行利用)のようだということも推論できました。また道路沿線に仏教寺院や道路機能施設を配置していることも判りました。これをきっかけに奈良時代準幹線道路の理解を深めたいと思います。
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