私の散歩論

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2017年11月16日木曜日

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)

3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の位置を示しました。その間の戸神川谷津に西根遺跡があります。関係すると考える南西ヶ作遺跡と大塚前遺跡の位置も示しました。

鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の竪穴住居軒数、掘立柱建物棟数を近隣遺跡と比較して示しました。
この表をグラフにしてより直観的に観察してみます。

竪穴住居軒数のグラフです。
掘立柱建物は人が居住していた建物です。
鳴神山遺跡の竪穴住居軒数は千葉県開発集落でトップクラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の5倍ほどになります。
発掘区域の大小で竪穴住居軒数も変わるはずですから、古代集落規模の本当の比較にはなりませんが、参考になります。
なお数値は発掘した竪穴住居数であり、建て替え、廃絶、新築が繰り返された結果全部を含むので、ある時間断面をとると各遺跡ともより少ない竪穴住居が存在していたと考えられます。

掘立柱建物棟数のグラフです。
掘立柱建物の用途は養蚕小屋が多かったという印象を墨書土器などから強く受けています。倉庫や行政施設、寺院などの用途の建物も掘立柱建物です。
鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の棟数が近い数値で、鳴神山遺跡は竪穴住居軒数に比して掘立柱建物棟数が異常に少ない印象をうけます。この異常さを次のグラフで確認しました。

竪穴住居10軒あたり掘立柱建物棟数のグラフです。
鳴神山遺跡の数値が近隣遺跡のなかで最低クラスです。鳴神山遺跡は船尾白幡遺跡の1/5です。後のデータで示すように鳴神山遺跡は牧集落であるので、養蚕小屋や倉庫をあまり必要としない生活を送っていたので、このような極端な掘立柱建物の少なさになったのです。逆に掘立柱建物棟数の少なさが鳴神山遺跡が牧集落であることを物語ります。

このグラフは鳴神山遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
年代を推定できる土器が出土した約半数の竪穴住居のグラフです。
因みに近隣遺跡のどこでも竪穴住居の約半数は廃絶後すぐ埋め立てられ遺物はほとんど無く、残り半数の竪穴住居から遺物が出土し、その中に多量の遺物が含まれているものがあるという似た状況があります。
8世紀第1四半期に鳴神山遺跡に竪穴住居が新たな開発集落として作られたと考えられます。
発掘調査報告書では7世紀2軒の竪穴住居と8世紀の竪穴住居との間に何らかの関連は見られないとしています。
その後竪穴住居数は増え、集落が発展します。下総国総合開発の時代に該当します。
蝦夷戦争時代には若干竪穴住居がへりますが、蝦夷戦争における「根こそぎ動員」の影響のようだとイメージしています。
蝦夷戦争が終わると竪穴住居数は急増して9世紀第2四半期にピークを迎えます。生産施設と労働力が存在し、かつ強制的供出がなくなったのですから拡大生産活動が可能になり、経済的に大発展したのだと思います。
その後雲行きが怪しくなり、9世紀第4四半期には急減し、10世紀には集落として消滅に近い状況になります。

このグラフは船尾白幡遺跡竪穴住居の年代別推移グラフです。
左の縦棒2本は50年間を右4本は25年間をイメージできますから、その平仄違いを考慮すると竪穴住居の推移パターンは鳴神山遺跡と似たものになります。
船尾白幡遺跡は9世紀第3四半期にピークを迎え、その後急減します。
8世紀初頭に集落がスタートして8世紀一杯着実に竪穴住居軒数を増やし、9世紀になると急増して第2、3四半期頃ピークを迎え、第4四半期に急減、10世紀初頭にはほとんど衰滅というパターンは下総台地古代開発集落に共通するようです。

年代別竪穴住居の分布をみるとこのグラフのようになります。
GISを使うと竪穴住居を年代別に分布図として捉えることができますから、全ての出土物情報もこのレベルで把握分析できます。
なお、8世紀の間だけ遺跡を2分するような線形で直線道路が存在し、9世紀になると直線道路は埋め立てられてしまいます。
掘立柱建物は出土物がほとんどないので年代が不明であり、図では一律にその分布を表示しています。

参考に竪穴住居からの遺物出土状況について私が理解したことを話します。
竪穴住居は深いもので1m程の穴になっていますが、その中に同じ墨書文字の土器破片が多数存在していたり、刀子・鉄鏃・紡錘車・鎌等が出土します。また火をもやした跡(焼土)も出土します。この状況から同じ墨書文字を共有する集団がこの穴の前で墨書土器を壊してその破片を穴に投げ込んだ祭祀を行ったと考えます。その祭祀では武器や道具も投げ込んだと考えます。
縄文時代西根遺跡ではダイナミックな土器破壊を伴う祭祀が浮き彫りになりましたが、そうした「土器破壊を伴う祭祀」という縄文時代風習が奈良時代にも続いていたことは興味深いことです。

つづく
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パワーポイントスライドを利用して次の11話を連載しています。
1 発掘調査報告書GIS学習 印西船穂郷の謎(1/11)
2 7~10世紀下総国の出来事 印西船穂郷の謎(2/11)
3 鳴神山遺跡と船尾白幡遺跡の概要 印西船穂郷の謎(3/11)
4 鳴神山遺跡の牧と漆、墨書文字「大」「大加」集団 印西船穂郷の謎(4/11)
5 小字「大野」の出自、「大」の意味と氏族、養蚕 印西船穂郷の謎(5/11)
6 船尾白幡遺跡の養蚕、漆と麻、「帀」の意味と氏族 印西船穂郷の謎(6/11)
7 鳴神山遺跡直線道路 印西船穂郷の謎(7/11)
8 鳴神山遺跡は典型古代牧遺跡 印西船穂郷の謎(8/11)
9 「鳴神山遺跡=大結馬牧」仮説 印西船穂郷の謎(9/11)
10 大結馬牧(仮説)の領域 印西船穂郷の謎(10/11)
11 古代開発集落が滅びた理由 印西船穂郷の謎(11/11)

参考 印西船穂郷の謎講演レジメ(pdf) 12M

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