私の散歩論

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2017年11月11日土曜日

下総台地の古代開発集落一斉衰滅の原因

下総台地の古代開発集落は9世紀第4四半期から10世紀初頭にかけて急速に一斉衰滅します。その原因がなにであるか以前から興味があります。
一方低地の水田耕作をする集落はこの時期に逆に発展しています。

その原因のイメージについてこの2~3年サッパリ判らなかったのですが、最近おぼろげながらたとえ話風に判ってきたような気になりましたので、その感想をメモしておきます。

1 9世紀末から10世紀にかけての下総国の状況
● 律令国家の統治が弱まる(徴税・治安など)
● 台地上開発集落はほとんど全て衰滅
● 低地集落(水田集落)は逆に発展

2 私のたとえ思考
●ワンマン会社S社で経営中枢部が失踪し、権力空白が生まれる。(下総国の状況)
●S社A部門は内部が混乱し仕事継続ができなくて、組織が崩壊。(台地上開発集落)
●S社B部門は内部の統制が維持され仕事継続して、組織として発展。(低地水田集落)
●同じS社を構成していたA部門とB部門の差はそれぞれの組織特性に基づく対応力の差

3 台地上開発集落崩壊のイメージ
●開発集落の住民はリーダー層を除くと、全て新住民であり、浮浪人や俘囚などが主体であった。
●開発集落の働き手は強制力により隷属的、半奴隷的な労働に従事していた。
●国家権力の空白が生まれた時、リーダー(地元氏族)による開発集落統治が不可能となった。

4 群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体
これまで群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党(*)という事象は台地開発集落を取り巻く社会環境(社会情勢)としてイメージしてきました。
しかし、そのイメージは誤りであり、群盗の蜂起、俘囚の反乱、僦馬の党が台地開発集落崩壊の実体そのものであると判りました。

次の武器は鳴神山遺跡の牧集団(墨書文字「大」「大加」集団)が所持していたものです。

鳴神山遺跡出土鉄鏃、刀子

鳴神山遺跡出土刀子

これらの武器を所持していた牧集団は強い統制下では生産活動に従事して集落発展に寄与したのですが、統制が弱まると地道な生産活動で社会になじむ方向ではなく、略奪や不正活動など社会に従わない方向、社会を破壊する方向に向かったのだと考えます。

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* 僦馬(シュウバ)の党 ウィキペディアから引用
僦馬の党(しゅうばのとう)は、平安期に坂東で見られた自ら武装して租税等の運輸を業とする「僦馬」による集団で、馬や荷の強奪を行った群盗。
律令制下において、地方から畿内への調庸の運搬を担ったのは郡司・富豪層であった。主に舟運に頼った西日本及び日本海沿岸に対し、馬牧に適した地が多い東国では馬による運送が発達し、これらの荷の運搬と安全を請け負う僦馬と呼ばれる集団が現れた。特に東海道足柄峠や東山道碓氷峠などの交通の難所において活躍したと見られている。
一方で8世紀末から9世紀にかけて軍団が廃止され、常置の国家正規軍がなくなると地方の治安は悪化し、国衙の厳しい調庸取り立てに反抗した群盗の横行が常態化するようになっていた。僦馬は、これら群盗に対抗するため武装し、また自らも他の僦馬を襲い荷や馬の強奪をするようになった。この背景には当時の東国における製鉄技術の発展を指摘する見解がある[1]。また、現在の東北地方から関東地方などに移住させられ、9世紀に度々反乱を起こした俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)と呼ばれる人々も、移住先にて商業や輸送に従事しており、僦馬の先駆的存在であったと指摘する見解もある[2]。彼らは徒党を組んで村々を襲い、東海道の馬を奪うと東山道で、東山道の馬を奪うと東海道で処分した。特に寛平~延喜年間には、899年(昌泰2年)に足柄峠・碓氷峠に関が設置されたことが示すとおり僦馬の横行が顕著であった。
これらの僦馬の党の横行を鎮圧したのは、平高望、藤原利仁、藤原秀郷らの下級貴族らであった。彼等は国司・押領使として勲功を挙げ、負名として土着し治安維持にあたった。
近年、武士の発生自体を、東国での僦馬の党、西国での海賊の横行とその鎮圧過程における在地土豪の武装集団の争いに求め、承平天慶の乱についても、これらを鎮圧した軍事貴族の内部分裂によるとする見解が出されている[3]。
1^ 網野、1982
2^ 宮原、2014
3^ 下向井、2001
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