大膳野南貝塚後期集落の出土物による竪穴住居検討 18
大膳野南貝塚後期集落の堀之内1式期(急成長ピーク期)の竪穴住居張出部方向を見ると、集落南側谷津から漁場へ向かったルートと集落西側から漁場へ向かったルートの2つが考えられますのでその漁場がどこであるのか検討してみます。
1 堀之内1式期の竪穴住居張出部方向から推定する漁場への2ルート
堀之内1式期の竪穴住居張出部方向から推定する漁場への2ルート
竪穴住居張出部(住居出入口)方向は生業フィールドへ通じる道路の方向を向いていると考えられます。2018.02.05記事「集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落」参照
黄緑で塗色した竪穴住居は集落西側谷津から漁場へ、それ以外の竪穴住居は集落南側谷津から漁場へ降りていたと考えます。
集落西側谷津を利用した漁場との往復は堀之内1式期(急成長ピーク期)だけにしか見られませんから、人口急増期の無理な漁撈を表現していると考えます。
2 後期集落時代の海面分布の様子
大膳野南貝塚 時代と縄文海進海面の対応イメージ
後期集落出土物のc14年代測定結果はほぼBP4000年を示します。
別資料との対応関係でみると後期集落は5000年前海面分布と3500年前海面分布の中間でより3500年前海面分布に近い姿としてイメージできます。
参考として3500年前海面分布の地図に大膳野南貝塚をプロットすると次のようになります。
想定 縄文時代後期頃の海況
この想定から大膳野南貝塚後期集落が営まれていた頃の海は村田川河口湾内に深く入り込んだ海面が全て失われて陸化していくそのプロセスの時期と一致するものとして把握できます。
3 大膳野南貝塚の海へ出る2ルートの意味
大膳野南貝塚及び近隣後期貝塚から漁場への谷津ルート
大膳野南貝塚の南側谷津から村田川河口湾に出るルート付近には後期貝塚は無いので、大膳野南貝塚が専用でき、谷津出口付近の漁場も専用できたと考えられます。(草刈遺跡は縄文時代中期。)
大膳野南貝塚の西側谷津から村田川河口湾に出るルートは六通貝塚一致し、場合によっては小金沢貝塚ともバッティングします。谷津出口の漁場は六通貝塚が専用的に使っていて、大膳野南貝塚の利用チャンスは少なかったに違いありません。
このようなリスクのあるルートを大膳野南貝塚では急成長ピーク期(堀之内1式期)だけ使っています。その意味するところは南側ルートから出て使える専用漁場1だけでは足りず、六通貝塚との争いを覚悟の上で六通貝塚の漁場2を六通貝塚操業時間以外とか、生産性の低い縁辺地区などで漁撈していたと想像します。人口急増がピークに達し、正常な生業活動が不可能になり、なりふり構わない活動はその後の人口急減(死滅、移動)がすでに内部から進んでいる姿として捉えることができます。
近隣貝塚集落とのトラブル覚悟の生業活動の背景には河口湾の陸化が進み、漁場自体が縮小消滅したことが主因として考えられます。
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