2018.08.08記事「六通貝塚の集落継続期間と盛衰」で六通貝塚の盛衰の様子のイメージを獲得することができました。称名寺式頃最初のピークを迎え、堀之内式期頃衰退し、その後再び勢いを増し晩期前半頃最大のピークを迎え晩期後半には衰退するというイメージです。このイメージは出土土器数や竪穴住居数から得たものです。
早速この盛衰イメージを竪穴住居数により大膳野南貝塚と対応させてみました。
1 六通貝塚と大膳野南貝塚の盛衰イメージ対応
六通貝塚と大膳野南貝塚 竪穴住居時期の概略対応
予想と異なる結果になりました。六通貝塚の発掘調査報告書を見る前は六通貝塚は周辺社会の拠点であり、母村であり、周辺展開した子村(支村)の盛衰とパラレルになると想像していました。しかし実際は上図の通り集落開始期(称名寺式期頃)は同じですがその後の堀之内式期頃(3群期)の様子が真反対になります。六通貝塚では衰退し、大膳野南貝塚ではピーク期(絶頂期)を迎えます。思考をいやが上にも刺激する情報です。
大膳野南貝塚では加曽利B式期頃(4群期)で集落は途絶えますが、六通貝塚はこの頃から再び勢いを増し後期後葉(5群期)を経て晩期前半頃(6群期)に絶頂期を迎え晩期後半から弥生時代中期まで集落が継続します。
2 考察
2-1 六通貝塚と大膳野南貝塚の関係
六通貝塚と大膳野南貝塚の位置を地図にプロットすると次のようになり、直線距離1.1㎞です。台地平坦面でつながっていますから現代人で徒歩15分、縄文人ならもっと短い時間で往来できる距離です。
六通貝塚と大膳野南貝塚の位置
徒歩15分の距離にある2つの縄文集落の盛衰で、堀之内1式期頃(3群期)に真反対の動き、一方は衰退、一方は絶頂期があったことを関係づけないで相互に孤立して生まれた動きであると考えることは100%できません。
堀之内式期頃(3群期)六通貝塚の衰退と大膳野南貝塚の絶頂は強く関連していて、表裏一体のものであると考えることが合理的思考であるというものです。
まだ六通貝塚の学習をスタートしたてなので全体の状況が自分に不明である部分も多いのですが、次のような最初の作業仮説(学習用仮説)をメモしておき、随時改良することにします。
●六通貝塚と大膳野南貝塚の関係仮説
1 加曽利EⅢ式頃(1群期)外部から来た集団が六通貝塚集落を開設して漁業を営み成功した。
2 六通貝塚集落が拠点となり漁場毎に対応する集落(子村)を開設していった。大膳野南貝塚もそのような経緯で称名寺式期頃(2群期)開設され村田川河口湾内に漁場を得た。
3 堀之内式期頃(3群期)大膳野南貝塚をはじめ幾つかの子村漁業が成功し、六通貝塚集落(母村)人員の一部がそれら成功した村に移動した。
4 加曽利B式期頃(4群期)になるとそれまで成功していた子村漁業が海岸線後退による漁場消滅等で衰退した。そのため子村の人員が母村(六通貝塚)に戻った。
堀之内式期頃(3群期)の六通貝塚は「衰退」したのではなく、人々が大膳野南貝塚などの成功した子村に出向いて貼り付いたために、いわば管理中枢機能だけが残った企業本社みたいなものだと考える仮説です。
堀之内式期頃(3群期)に成功したビジネスモデル(漁業子村展開戦略)は、その後の情勢変化(海岸線の後退による漁業の衰退)に対応して見直され、加曽利B式期頃(4群期)には別のビジネスモデル(母村集中強化モデル?)に移行したのだと仮説します。
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