私の散歩論

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2018年9月29日土曜日

地名「千葉」=原史「チハ」同族集団説 武田宗久仮説の先進性

地名「千葉」は縄文語起源 梅原猛仮説 その4

梅原猛は「日本冒険(上) 梅原猛著作集7」(小学館、2001)のなかで、地名「千葉」がチパ(アイヌ古語でヌササン(イナウでつくった祭壇)の意味)に由来し、それは縄文時代に遡るという仮説を提示しています。
このシリーズ記事ではこの仮説に興味をおぼえて検討しています。
この記事では梅原猛がおそらく仮説構成要素として使ったであろうと推定している武田宗久仮説を引用紹介します。
武田宗久は「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)執筆のなかで論文「千葉という名称の由来」を掲載し、原史時代における「チハ」という同族集団存在の仮説を展開しています。この論文は「千葉市史 原始古代中世編」(千葉市、昭和49年)においても再掲されています。

1 「千葉」名称由来3説と漢字「千葉」が単なる当て字の1つである説明
武田宗久は「千葉」という名称の由来は大要次の3説になるとして、それぞれの説を詳しく説明しています。
1)羽衣伝説に系統を引くもの
2)霊石天降伝説に系統を引くもの
3)草木の葉の繁茂する様を形容したとする説
この3説のうち1)と2)は千葉家の出自が高貴なことや一族の繁栄を念ずる意図から考案されたものとして「ただ千葉家の歴史を説明するための仮託としての用例にすぎない」としています。
3)の説には注目し、次のように記述しています。
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次に草木の葉の繁茂する様に由来を求めようとする説は契沖において最も優れ、『万葉集』の「知婆(ちば)の加豆奴(かづぬ)」(応神天皇の歌)、『知波(ちば)の野(ぬ)』(太田部足人の歌)等をそれぞれ「千葉の葛野」「千葉の野」にあてるというふうに、千葉家成立以前にさかのぼって本市の地名の由来を探求している点に注目すべきものがある。しかし右は「千葉」という漢字にとらわれすぎた解釈であって、既に『万葉集』には知波、知婆、千葉郡などの語を見出し、『日本後紀』には千葉、『延喜式』には千葉、『倭名類聚抄』には、千葉と書いて知波と訓じていて、必ずしも「千葉」という漢字にあてて草木の繁茂する意味に解釈する必要はない。そこで「チバ」という言葉の構成から検討すると、上古には濁音を用いないのが原則であるから、「チバ」は「チハ」からの転音で、この変化はかなり早い時代に成立したらしいこと、「チハ」は「チ」と「ハ」の複合語であろうことを推知することができよう。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
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ここで武田宗久が述べていることは、地名「千葉」が千葉家成立以前に遡ることと、漢字「千葉」は単なる当て字の1つであり、漢字導入以前から音「チハ」あるいは「チバ」が存在していたということです。つまり地名「千葉」は漢字「千葉」とは全く無関係に音「チハ」あるいは「チバ」として存在していたという説明です。
漢字「千葉」はなんら地名とは関係がなく、地名の最初は「チハ」あるいは「チバ」という音で存在していたという根本原理がここに書かれており、この根本原理はだれも否定できません。漢字導入以前の地名とその当て字に関する関係は柳田國男もいろいろなところで既にのべています。
漢字「千葉」はその漢字を当てた人が考えた「地名「チハ」あるいは「チバ」への修飾・美化」であり、本当の由来とは全く無関係であると言い切ることができます。ただし沢山の異なる当て字のなかで漢字「千葉」が漢字導入期の人々にとって心地よいという事情があり、漢字「千葉」が生き残ったという経過はあったかと推定します。
この武田宗久の考えを梅原猛が読み、共鳴したと推定します。

2 武田宗久が考える「チハ」の意味
武田宗久は「チハ」の意味を次のように考えています。
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恐らく「チ」は血(ち)、霊(ち)、乳(ちち)、父(ちち)などと音通で血縁を同じくするものの意、「ハ」は歯(は)、葉(は)、端(は)、母(はは)などと通じ呼吸する、繁る、子孫、生れる、末端などを意味し、「チ」と「ハ」の結合からなる「チハヤフル」という「神」の枕詞には神意の烈しさ、畏ろしさ、速さなどを含めた意味をもっていることなどから、「チハ」とは「畏敬する神を同祖とするものの血縁集団」又は「その居住する所」という程の意味があるのではないかと思われるのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
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この「チハ」の意味を「ヌササンである」と言い換えると武田宗久仮説は梅原猛仮説と同じになります。

3 地名「千葉」成立プロセス
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これを要するに千葉という称呼の成立過程は、まず原史時代において自然に発生した「チハ」という同族集団の汎称から、やがて彼らの居住する所を表す固有名詞として「チハ」ないし、「チバ」が使用され、同時に彼らの氏族は「チバ」氏と呼ばれた。その後「チバ」氏が次第に勢力を蓄えてチバ一円を従えるようになると、「チバノクニ」が一般に知られるようになり、やがて大和朝廷の支配下に服属して、その首長は、「チバ」国造に任命され、彼の率いる人民はその領土と共に、一応収公された形式の下に大私部となって貢納のための労働に従事した。そこで「チバ」氏の首長は一方においては「チバ」国造であると同時に他方では大私部を統率する「トモノミヤツコ」(伴造)でもあったから、その家柄を示すにアタイ(直)の「カバネ」(姓)を公許され、ついには大私部を己の氏とするかのごとくになって、永く朝廷の直轄領土の中に奉仕する地方豪族の一つとなったために、たまたま『日本後紀』には「千葉国造大私部直善人」なる人物が見えるのである。
さて、その後王朝後半期の激しい政治的動乱期に際会して関東八平氏の一族が侵入し、後述するような方法で「チバ」氏の領土を蚕食し、ついには全く旧領を奪取してそこに新しい支配関係が成立した。その領土が「千葉の荘」であり、その新たなる支配者が所謂葛原親王の苗裔「千葉氏」であるのである。すなわちこの第二の「千葉氏」は第一の「千葉氏」の名称をそのまま踏襲することによって、領内の住民と新しい主従関係を結んだが、その出自は単に葛原親王の後裔とする以外に、古くから千葉の土地と深い関係にある高貴にして権威ある家柄であるとの印象を抱かせるために、いろいろな説話や伝承の中に附会して説明する必要があったのである。「千葉市誌」(千葉市、昭和28年)から引用
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原史時代の「チハ」同族集団が千葉国造にまで繋がっているというまことに雄大でロマンあふれる仮説です。
武田宗久は千葉市誌の原始時代、古墳時代、王朝時代を執筆していますが、原始時代は縄文時代と弥生時代が含まれています。従ってここでの原史時代とは縄文時代・弥生時代を含む時代と考えてよいと考えます。
武田宗久は縄文時代・弥生時代に「チハ」同族集団が居住していて、その集団の系統が千葉国造につながったと考えています。そしてそれが第一の「千葉氏」であると考えています。
武田宗久の地名「千葉」仮説は誠に先進的なものであると考えます。

4 参考 地名「千葉」の位置
和名類聚抄には下総国千葉郡千葉という郷名が出てきます。

和名類聚抄の写本 「千葉県の歴史 資料編 古代」(発行千葉県)から引用
この郷名「千葉」の場所を邨岡良弼は次のように比定しています。

千葉県地名変遷総覧附録 千葉県郷名分布図(邨岡良弼日本地理志料による) 123千葉
この場所は都川と村田川に挟まれた台地に位置しています。この場所付近が古墳時代頃の第一の「千葉氏」と関わることは間違いないようです。
その第一の「千葉氏」のルーツとかかわるかもしれない遺跡を弥生時代・縄文時代へと遡って追ってみる。逆にこの場所付近の六通貝塚等縄文後晩期遺跡から弥生時代、古墳時代へと考古遺跡情報で社会がつながるのか考えてみることが課題となります。
地名「千葉」=チパ仮説検討は、縄文時代-弥生時代-古墳時代-奈良・平安時代へと社会のつながりを意識して考古遺跡を学習するテーマとなりますので、私にとって価値の大きな学習活動となりそうです。

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