私の散歩論

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2019年5月25日土曜日

めまいと浦島太郎感

市立市川考古博物館を訪問しました。
貝塚は幼稚園の遠足で見る者がなんともうれしくなる光景となっていました。

堀之内貝塚の幼稚園の遠足

縄文土器の3Dモデル作成のための写真撮影という取材目的は達成することが出来たと思います。430シャッター×5フィルター=2150ファイル(13.3G)がカメラに貯まりました。

最後に館で販売している図書を購入しまたが、待っている間に展示されている4000年前の堀之内貝塚付近の様子を写真に撮りました。

約4000年前の推定海岸線
堀之内貝塚から台地をくだり、谷津を通って海に出た様子がしのばれます。

この後、館の外にでてすぐそばにある展望ポイントから付近を眺めました。

市立市川考古博物館脇の展望ポインからの展望

ア めまい
急に明るいところに出たせいか、軽くめまいがしました。しかし、単なるフィジカルなめまいではないようす。

イ 浦島太郎感
風景をよく見るとどうも本来の尾根が全部そのまま削除されてしまったような大規模地形改変の現場のようです。さらによくみると外環道の地上部分道路が走っています。外環道の堀割の上部も見えます。
めまいの原因のひとつが地形改変と外環道を直視したことにあることに気が付きました。幼稚園児が遊ぶレトロな雰囲気の公園のすぐ近くにこのような光景が存在していることを全く予期していなかったので、めまいがしたのだと思います。同時に浦島太郎感のような感情が湧きました。自動車でこの道路を走った時は感情を味わう余裕はありませんでしたが、風景としてみると、未来世界に迷い込んだような感情が湧きだします。長い間待たされてようやく実現した外環道と自分の年齢を一緒に考えたのだと思います。

ウ 縄文人に説明する
自分を浦島太郎というほどならば、もしこの場に堀之内貝塚縄文人がきてこの光景をみたらどうなるか、想像が想像を呼びました。
縄文人がただただ驚き、状況を理解できないであろうことは想像に難くありません。
かりに私に縄文語が話せる能力があったとして、どのようにこの光景を説明するか空想してみました。
外環道について理解してもらおうと空想しました。
1 「道路」
空想を始めたとたん、「道路」(道)という言葉が縄文語にあるかどうか確認する必要があることに気が付きました。
集落から谷津におりる縄文時代道路遺構がありますから、また集落間をむすぶ固定通路は当然存在していたであろうから「道路」概念はあったと思います。
しかし、構造物としての道路(人が土木工事をして計画的につくる道路)の意識は極めて弱かったかもしれないと空想します。
はたして縄文人に構造物としての道路(風景としての道路)の存在を理解してもらえるかどうか不安です。
2 「乗り物」
道路を走る「乗り物」という言葉が縄文語にはないから説明できないだろうと考えました。縄文時代にある「乗り物」は人の肩と丸木舟(や筏)、(動力源のない)ソリくらいだけだと理解します。丸木舟やソリを一般化して「乗り物」という概念が生れていたとは考えづらいです。馬も車輪もないのですから陸上の「乗り物」は説明困難です。

めまいの感覚のなかで、その他いろいろと空想しました。

エ めまいのなかで得た気づき
フィジカルなめまいの後ろに人生の浦島太郎感があり、さらにその先に縄文人との会話がありました。
まったくたまたまの例ですが、思考実験的に、縄文人と道路とか乗り物について話をしようとすると、自分が縄文人が持っている概念・言葉について何も知らないことがわかりました。
縄文人が持っている概念・言葉そのものは直接わからなくても、縄文遺跡・遺構・遺物を子細に観察すれば、縄文人の概念・言葉が現代と比較してどうだったのか、その差分イメージを類推することはできるかもしれないと直観(楽観)しました。

縄文の興味は煎じ詰めて煎じ詰めて行けば、最後は遺跡・遺構・遺物そのものではなく、それ作った・使った縄文人という人間そのものにあることを確認できました。

縄文学習の目的は遺跡・遺構・遺物を媒介にして縄文人と会話できるようになることであると考えました。





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