私の散歩論

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2020年9月17日木曜日

祈りと不安に関する妄想

 縄文社会消長分析学習 46

ある待ち合わせ時間に山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)をペラペラめくって、この図書の素晴らしさを噛みしめていました。

そんな中でつぎのページの記述に目がとまり、妄想が発展しましたので、メモします。

1 山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)306ページの記述


山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)306ページの記述

 私たちは社会や文化の発展を、大きな建物がある、あるいはモノがたくさんあるといった、量的な見地から測ることが多い。だが、それは限られた一面的な見方である。ない・少ないという意味も合わせて考えるべきなのだ。土偶や石棒などの呪術具の数が多いということは、それだけ当時、それが必要とされた場面があったということにほかならない。物理的・精神的な不安がいっぱいあるがゆえに多くの祈りを捧げなければいけない生活と、不安を移動などの方法によってすみやかに解決し、祈る必要のない生活。どちらの方がより「人間的に豊かな生活」であると、読者の皆さんは思われるだろうか。

2 不安と祈り 

ア 306ページの趣旨

山田康弘著「縄文時代の歴史」(2019、講談社現代新書)306ページの記述趣旨は次のように理解します。

定住して人口が増えると不安が増え祈りが必要になる。したがって土偶や石棒なども増える。人口が少なく移動が多ければ祈りの必要性は少なく、土偶や石棒は少ない。

この趣旨はその通りだと思います。

イ 縄文後晩期の不安

同時に人口増大し定住しただけでは土偶や石棒が増えない場合もあります。千葉県の貝塚の中期は人口急増しましたが、土偶は皆無といっていいほどの少なさであり、石棒も大変少ないです。人々に不安が少なく、したがって祈りも少なかったことは土偶や石棒の出土量から言えます。

しかし、後晩期になると土偶や石棒が急増します。人々の不安が急増します。

以下、その理由を妄想します。

3 縄文後晩期に土偶や石棒が増えた理由(千葉県)

縄文後晩期に土偶や石棒が増えた理由を千葉県をイメージしながら考えてみます。

縄文後晩期では中期と比べて土偶や石棒が飛躍的に増えました。

縄文後晩期にはそれだけ不安が人々に広がり、土偶や石棒を利用した祭祀が必要だったということです。

その増大した不安とは何か?

増大した不安の根源は大陸から伝来した原始農業社会(階層化社会)仕様の地母神神話による祭祀そのものであると考えます。

地母神神話による祭祀(以下地母神祭祀と略称)伝来前までの不安解消方法は旧石器社会由来のアニミズムだったと空想します。

中期にはアニミズムと地母神祭祀が地域的にすみわけしていました。ところが後晩期には地母神祭祀が列島を席捲しました。千葉県の貝塚集落も後期になると地母神祭祀社会に変貌しました。

地母神祭祀には、階層社会由来の「人の生贄」(下層民犠牲による危機の克服)、「身体変更」(出自や階層の肉体表現義務化)などが含まれます。

「人の生贄」は現代人がそれを風景としてみれば残酷な公開集団リンチ・処刑です。縄文人にとっても刺激の強いもので、生贄にされる方は当然のこと、生贄にする方も強いストレス・不安を感じていたに違いありません。同時に人の残酷殺害ショーを快楽・最高の娯楽として感じていたとも想像します。

「身体変工」は抜歯、耳たぶ穿孔肥大化、全身の入れ墨、ペニス異形化などで、少年少女期、青年期、壮年期の通過儀礼で、多大な苦痛を伴うものであったことは確実です。ストレス・不安の素であったことは確実です。同時に、それが社会の掟であり、それから逃れることはあり得なかったことだと思います。

つまり、地母神祭祀活動そのものに強いストレスの素、不安の素が内包されていて、そのストレス・不安を解消するためにより一層石棒や土偶を使った祭祀活動が必要だったと考えます。

縄文後晩期に気温低下して食糧が不足し、その不安のために祭祀が発達したという縄文専門家一般の考え方は「嘘っぱち」だと考えます。(気温低下は無かった、むしろ現在より高いとデータは語ります。食糧も中期と比べて逆に増えたことをこれまたデータが語ります。)

中期に大陸から伝来した地母神祭祀により縄文社会が弱体化したと考えます。

地母神祭祀と一緒に伝来したであろう原始農業を発展させれば、地母神祭祀と農業の組み合わせにより縄文社会は農業社会へと踏み出し、全く別の社会発展があったにちがいありません。

「本格農業はしません、しかし魅力的な祭祀だけは全面的に受け入れます。」という縄文社会の主体的対応(選択)がその後の社会衰退につながったと考えます。


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