私の散歩論

ページ

2020年10月10日土曜日

千葉市に存在した縄文大規模落し穴列の紹介(2015年4月検討)

 縄文社会消長分析学習 49

学習に着手した千葉市内野第1遺跡に76基を有する縄文大規模落し穴列が検出されています。その大規模落し穴列を2015年4月にブログ記事にて検討しましたので、紹介します。

ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.20記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代大規模落し穴シカ猟

ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.18記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代土壙列と地形

ブログ花見川流域を歩く番外編2015.04.16記事「千葉市内野第1遺跡 縄文時代遺構の土壙列に注目する

1 千葉市内野第1遺跡発掘調査報告書記載76基土壙穴列


千葉市内野第1遺跡縄文時代遺構に見られる土壙列


土壙の形状 例

報告書では次のような説明がされています。(要約)

1号土壙列(北側)は、標高30mから低地部分までの230mにわたって台地を横断する形で計36基が検出されている。さらに数基の存在が考えられる。住居跡等に切られている土壙がある。

2号土壙列は42基が標高20mのラインに沿って約200mに亘り弧状に分布する。住居跡に切られている土壙がある。

土壙は陥穴群と思われ、規模は長軸2m~3m、短軸1m~2m、深さ1~2mで、底面が細くなり断面がV字状をなすもので底面施設はない。土壙間の間隔は、3m~4mであるが、一部が欠落したり、間延びしている部分もあり、一定していない。構築時期については、住居跡との重複関係から古墳時代前期より古いと想定できるが、明確な時期決定はできない。

2 土壙列と地形


千葉市内野第1遺跡縄文時代遺構に見られる土壙列

土壙列は台地斜面中腹に設置されています。

下段の土壙列の東端は沖積面に埋没しています。土壙列が使われていた時期の河床面は発掘当時の沖積面よりはるか下位に存在していたと考えられます。(近隣他所のボーリング資料例から数m~10m程度河床面が低かった…斜面がそれだけ長大だった…と推定できます。)


土壙列の1960年代都市図プロット図

(1960年代都市図は開発前地形を表現する最初の航測地図です。この地図所管は現在、千葉市都市計画課ではなく千葉市郷土博物館です。千葉市郷土博物館に「閲覧申請」して電子複製を作成しました。)


土壙列の現代地図プロット図

3 土壙列を使った狩猟方法


狩猟装置としての土壙列区分とその狩猟範囲(追い込みのイメージ)

土壙列は落し穴列であり、大規模追い込み猟の装置であると考えました。


土壙列(落し穴列)の工夫の相違

下段の土壙列より上段の土壙列の方が工夫がされているので、上段土壙列の方が新しいと考えました。また沖積面の上昇(斜面の短縮)により下段の土壙列が狩猟装置として機能低下し、それにより上段土壙列が新設されたと考えることもできるかもしれません。

4 感想(2020.10.10)

・落し穴列で大量(?)捕獲したシカは沖積面を流れる勝田川の水で処理され、その場には多量のシカ骨が残されたと推測できます。それらは全て現在沖積面の下深さ10m以上の場所になります。開発によりその沖積面は掘削され遊水地に、あるいは埋め立てられ住宅地になりました。沖積層の深いところに現在も狩猟に関わる遺構や遺物が存在している可能性が濃厚です。

・人の居住と狩猟装置の存在は両立しません。この装置は縄文後晩期集落とは全く無関係であると結論づけることができます。またこの場所にシカの大きな群れが遊動していたという「豊過ぎる状況」や落し穴の盛行時期等から、この落し穴列は縄文早期以前のものであると想像します。


0 件のコメント:

コメントを投稿