私の散歩論

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2023年2月11日土曜日

鉄道連隊の花見川架橋演習

 花見川よもやま話 第10話


Railroad Regiment's Hanami River Bridge Exercise


The Railway Regiment is conducting light railroad laying exercises several times at Hanami River. I looked at the picture postcard images of three of them. These picture postcards offer a glimpse of what the Hanami River looked like before the war.


花見川で鉄道連隊が何回か軽便鉄道敷設演習をしています。そのうち3回の様子を絵葉書画像で見てみました。戦前花見川の様子がこれら絵葉書から垣間見えます。

この記事の絵葉書画像は全て「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)から引用しています。写真掲載を許可していただいた髙木宏之様及び光人社様に感謝します。

1 鉄道連隊敷設鉄道の花見川架橋地点


鉄道連隊敷設鉄道の花見川架橋地点


2 花島橋梁架橋 軽便鉄道 1917年頃


秋季演習ニ於ケル架橋実況(其ノ四)

「上掲(*)の甲分解式軽便鉄道橋をもちいてP001(**)の花島橋梁を架設する状況で、谷の最深部両側に群杭列の橋脚を立て、中間の足場は旧橋梁のティンバートレッスルを利用し、その上で左右のトラスを組み立て、続いて横梁で左右のトラスを連結せんとする状況で、撮影時期は1917年頃と思われる。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

* 出典書では分解式鉄橋写真を掲載説明している。

** 次掲載カラー写真

感想

橋脚建設後、中間の足場をつくり、その上で2列のトラスを組み立て、その2列を連結して構造をつくるという工程がよくわかる写真と説明になっています。外地の戦場でこのような橋梁を迅速につくるための鉄道兵訓練の一コマです。



花島架橋

「鉄道連隊の代表車両のひとつが、双合軽便機関車であった。絵葉書は千葉の鉄道第一連隊営と、津田沼の鉄道第二連隊営をむすぶ「演習線路習志野線」の花島橋梁で、当初「架桟橋」と称するティンバートレッスルであったが、のちに「甲分解式軽便鉄道橋」と称するトラス桁に架け替えられた。双合軽便機関車と軽便炭水車の全長(連結面間)が合計約13.2mであることより、トラス桁の径間は約27mと思われ、両端は多数の杭を集合させた「群杭列」の橋脚で支持されている。」

 出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

感想

双合機関車とは2台の機関車を背中合わせに連結して運用することであるとよく理解できます。

車両の大きさと人の大きさのバランスが現代鉄道のそれと違うので、なおさら軽便鉄道のイメージが湧きます。

桁が車両の重さでたわんでいる有様が写っています。

2枚の写真撮影場場所は殆ど同じであり、右橋脚背後間近に台地の崖が写っていることから、花見川の下流側(橋梁の南側)から上流方向を向いて撮った写真だと思われます。



米軍撮影空中写真2(1949年撮影、USR-R2769-95、106)

花島橋梁がまだ残存しています。



現代の空中写真(斜め空中写真風)

グーグルアースより


3 柏井橋梁架橋 軽便鉄道 1927年頃


架橋作業(其一)

「1921年、鉄道連隊は作業地拡張のため、習志野線高津~犢橋間の花島橋梁の上流側に「花島迂回線」を計画し、用地買収に着手した。絵葉書は1927年頃、同線柏井橋梁の架設状況と思われ、橋脚の基礎はコンクリート打ちとしており、画面左手奥には橋梁に続く築堤の土盛が見える」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

考察と感想

ここは印旛沼堀割普請跡の堀割であり、現在と比べて堀割の比高が小さく、斜面のイメージがずいぶんと柔らかなものになっています。

この写真は、現在の鷹之台カンツリー倶楽部方向を撮影したもので、奥の築堤は周辺の地面より高くなっています。これは周辺の地面が台地面(下総下位面)ではなく、古柏井川谷底で、台地面より一段低いためです。

画面右半分の背景の樹林地斜面の位置には、その後本土決戦に備えたと考えられるトーチカと監視塔が1944年~45年頃建設されました。米軍が1949年に撮影した空中写真に写っています。

工事用トロッコの線分は米軍撮影空中写真にも道路と思われる線分で表現されています。この橋梁の工事専用道路(軌道)とした長期間つかわれたものと考えられます。

画面中央逓信マークのボックスは軌道移動用の最新鋭通信装置のようです。



「架橋作業(其一)」付近の現在の風景

橋脚をつくるための沢山の資材と多数の人間が消えると、空間が狭くなります。夢から醒めて現実に戻った時のような感情が生まれます。



架橋作業(其三)

「柏井橋梁の架設訓練中の光景で、画面右端に見える3径間目の鈑桁を所定位置に架設すべく、木組の足場上にサンドルを組み立てる直前の状況と思われる。花島迂回線は延長約7㎞を2工区に分け、1927年秋頃に同橋梁の架設工事が行われたようで、画面手前の水田には稲掛が行われている。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

考察と感想

戦前期の堀割斜面の様子がよくわかる写真です。

トロッコが低湿地の地面を避けて設置されています。



架橋作業(其四)

「柏井橋梁の4径間目の鈑桁架設には、九三式手延式架設機がもちいられた。これは鈑桁の片側に一時的に取り付ける片持トラスの一種で、鈑桁の重心がまだ橋上にあるうちに先端が向こう側の橋脚に届き、定位置に達すれば取り外して、鈑桁を橋脚上におろすもので、中間の足場を省略できる利点があった。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

考察と感想

画面右奥に切通斜面があることから、撮影方向が現在の横戸町方向であることが判ります。

切通しは印旛沼堀割普請の捨土土手を切ったのものです。

背景の地面(その左半分は樹林がない)は捨土土手のスカイラインです。このスカイラインの背後には古柏井川谷底が細長い凹地になって存在しています。

画面中央下に水を湛えた水路が写っています。この水路は橋梁下あたりから北に向かって(写真左側に向かって)のびているもので、米軍撮影空中写真に写っています。

画面左で這いつくばって測量している下級兵の姿と、画面右の監督上級兵の姿が対照的です。


4 柏井橋梁架橋 普通鉄道 1935年頃


柏井橋梁架設作業①

「演習線路の各橋梁は架設および撤収訓練を目的としたものであるため、とうぜん恒久的なものでなく、架け替えもしばしば行われた。写真は1935年頃の撮影と思われ、前ページ下(*)とほぼ同一アングルながら、橋脚が以前の重畳抗列より鉄筋コンクリート造となり、橋桁は一部に九三式重構桁がもちいられた。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

考察と感想

切通しの斜面が写っていて、印旛沼堀割普請の捨土土手を切って鉄道敷をつくったことがよくわかる写真です。

白いテントがある付近が現在の京成バス駐車場入り口付近です。



柏井橋梁架設作業②

「谷地内より架設工事を終えた柏井橋梁を見上げたカットで、鉄筋コンクリート造の新橋脚左側に隣接する重畳抗列と、サンドル右側の単列架柱は、旧橋脚と思われる。画面左の鈑桁は、小ブロック複数をボルトで結合して所要径間を得るものと思われるが、制式名称は残念ながら不詳である。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)

考察と感想

画面左に2人の人物がいて(右は兵、左は一般人?)その背後に谷津の遠景が見えます。戦前期堀割の風景として貴重な情報です。



柏井橋梁重構桁架設終了シテ

「九三式重構桁は、長さ約2mの箱型鉄骨を所要径間に応じて継ぎ合わせ、橋桁の上方にワイヤーロープを張り、滑車で吊って前方に押し出して橋脚にのせ、径間と荷重に応じて2列ないし8列に配置し、その上に軌道を敷設するものである。写真はワイヤーロープの門型支柱を明瞭に示すもので、横梁上をチェーンブロックが左右に移動するものと思われる。なお、本葉が収められたアルバムには「演習中初年兵勝井候補正足ヲ辷(すべ)ラシテ犠牲トナル」の記入があり、高所のため、生命の危険をともなう訓練であったことがわかる。」

出典:「写真に見る鉄道連隊」(髙木宏之著、光人社発行)



「柏井橋梁重構桁架設終了シテ」付近の現在の風景

現在の写真を見ると、なにか喪失感のような感情が生まれてしまいます。



架橋作業写真と空中写真の対照

空中写真は米軍撮影(1949年撮影、USR-R2769-95)

トーチカ及び監視塔は1944年~45年頃建設されたと考えられる。



参考 グーグルアースによる空中写真


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