八千代市発行の「八千代市の歴史通史編上」に大変興味深い記述がありましたので、紹介します。
八千代市の歴史通史編上の第3章第2節農村の分散と個性化(弥生時代後期)138ページから141ページ部分の、次の記述が目に飛び込みました。
「印旛沼周辺からも新川を通じて内房地域へ向かった人々がいたのかもしれない。」
「・・・内房地域と同じ土器であり、新川を利用した交流の深さをうかがえる。」
「南との交流のために新川に船を出しやすかったからであろう。」
記述の趣旨は、印旛沼周辺の栗谷遺跡、田原窪遺跡、萱田遺跡群などの弥生時代後期土器形式調査や集落立地サイトの分析から、新川筋が南との交流の玄関口になっていたというものです。
この記述について八千代市郷土博物館に問い合わせたところ、
1地域間の交流で、特に物の移動というのを想定すると、陸上よりも船を利用した水上輸送を考えるのが自然であり、
2新川を通じた水上交通というのが想定でき、
3新川を通じて、北は当時の香取海とよばれた内海へ出ることが、南へは、僅かながら陸路を入れて、花見川を通じて東京湾へと出ることが可能であったと考えられること、
などについて教えていただきました。
このブログでは地史的年代における花見川の河川争奪について想像し、享保期堀割普請前の河川の状況を考えました。(花見川上流紀行10河川争奪の見立て、花見川上流紀行15堀割普請前の花見川谷頭その1、花見川上流紀行16堀割普請前の花見川谷頭その2など)
この考察から、現在の花見川河道を次の6つの成分に分解することが出来ます。
1河川争奪前の花見川本流河道(当時の花見川の本流筋は犢橋川筋です。)
2河川争奪前の本流から分かれた争奪先兵の支川
3河川争奪によって花見川が古柏井川から奪取した河道
4河川争奪後残った古柏井川の河道
5古柏井川合流後の平戸川河道
6戦後東京湾埋立に伴う花見川延伸河道
花見川河道の6つの成分
花見川6成分は縄文海進想定図をベースに表示しています。
この6つの成分のうち、3(河川争奪によって花見川が古柏井川から奪取した河道)と4(河川争奪後残った古柏井川の河道)は、谷地形上は繋がっているけれども、水系上は短区間繋がっていない状況にありました。
古代特に縄文時代や弥生時代にあっては台地上には原生林が分布していたことから、ここを荷物を運びながら通りぬけることは難儀なことであったと想像できます。一方丸木舟等を利用した海面や河川水面の通航は障害物が少なく、効率的な移動、輸送が可能であったと考えられます。
関東地方では、印旛沼(とそれに連なる香取海)と東京湾でそれぞれ湾内各地の交流が舟運で行われていました。同時に、花見川という好条件を備えた幹線ルートを通じて、印旛沼(香取海)周辺地域と東京湾周辺地域の交流が水運で(一部短区間が陸路となりますが)行われていたと考えます。
「八千代市の歴史通史編上」はこのような花見川の交流物流幹線としての戦略的意義を弥生時代後期を例に説明しているものと、私は捉えます。
天保の堀割普請では黒船来訪に当たって、東京湾口が封鎖された際の物流ルート確保が主要な目的であったわけです。こうした機能(利根川印旛沼と東京湾の連絡機能)を花見川に求めた発想は当時の独創ではなく、縄文時代から花見川が果たしてきた連絡機能の記憶が社会に残っていて、当然のごとく生まれた発想であったと考えられます。
0 件のコメント:
コメントを投稿