私の散歩論

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2011年9月27日火曜日

河川名称「印旛放水路(下流部)」では合理的対応が困難


河川法名称「印旛放水路(下流部)」では外部要請に対して、合理的対応が困難であるという懸念を持っていますので、今後の検討のために考えたことを記録しておきます。

たとえば、治水面で利根川水系サイドから「印旛放水路(下流部)に1000トン流すから大規模開削よろしく」と言われたとします。

地元千葉の人々がこの川を「印旛放水路(下流部)」と呼び、「人工河川」と認識していて、納得してしまっていては、「堀割の自然環境が優れている」という程度の議論はできますが、花見川流域の自然的、歴史文化的価値全般についての議論は困難です。
「放水路」「人工河川」と流域の自然、歴史、文化は結びついていません。

「印旛放水路(下流部)」という名称では流域概念がほとんど無いに等しいので、外部要請を流域全体の問題として捉えるという視点も脆弱になります。

「印旛放水路(下流部)」という名称では、問題が起こったとき、流域全体の人が当事者意識を持つことはほとんど不可能です。「放水路」のすぐ近くの人しか当事者意識を持つことができないに違いありません。

第一、流域住民は「印旛放水路(下流部)」と聞いてもどこの河川だかわからない始末です。

おそらく、議論も「自然保護か工事か」といった矮小化した、貧しいものになると思います。

「印旛放水路(下流部)」ではなく、花見川(高津川、勝田川を含む)としてこの川を捉え、その流域を意識した河川管理が行われていれば、外部要請と花見川流域の自然的価値、歴史文化的価値を総合的に評価するという合理的検討を行うことができます。

花見川ならだれでも知っています。大体からして、花見川は花見川区という行政区域の名称にもなっています。

花見川名称ならば、自然環境の大切さだけではなく、河川争奪現象地形の存在、縄文時代から利用された古代人の印旛沼-東京湾回廊として利用、堀割に立地する霊的空間、土木遺構としての素掘堀割の存在など、多様な価値を、外部要請と対置して、総合検討できます。

「印旛放水路(下流部)」という名称では住民のほとんどがそっぽを向く問題も、花見川という名称なら自分たちの問題として捉えることができます。

私が危惧することは、「印旛放水路(下流部)」という名称使用(その背後には人工河川という誤った思考が存在している)により、地元千葉が本来備えているべき論理展開力の一部を放棄してしまっているということです。外部要請にたいして本来行われるべき総合的合理的議論をする能力を最初から制限しているという、一種の思考上の武装解除状態にあることを危惧します。

また、花見川名称なら実現できる豊かな住民参加が、「印旛放水路(下流部)」という名称で貧困な住民参加になってしまうことを危惧します。

こうした危惧に気がつくのが遅ければ、地元千葉は結果として後で、ほぞをかみます。

私は花見川堀割部分の自然や土木遺構としての文化財的価値を大切にしたいと思っています。
しかし、なにがなんでも外部要請は阻止したいという立場ではありません。

国策としての外部要請があれば、地元千葉はそれに対して正々堂々と受けて立ち、あるべき総合的合理的議論をつくすことを願うものです。
あるべき総合的合理的議論がつくされれば、外部要請と花見川整備との調和点をみつけることが可能になるかもしれません。少なくとも、多くの人が受け入れることができる結論を得ることができると思います。

残念ながら、「印旛放水路(下流部)」と「人工河川」ではあるべき総合的合理的議論は最初から不可能です。

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